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PK shampoo「市營葬儀」感想


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梅田のタワレコフラゲした帰りだが、早速聴いたので感想を。

まだ買ってない方は、早く買って下さい。

https://tower.jp/item/5223179/%E5%B8%82%E7%87%9F%E8%91%AC%E5%84%80

 

この曲のカップリングには、かなり古い時期の曲であるm7と、その曲が作られた時代を歌った学生街全能幻想が収録されている。

カップリングにこの2曲が選ばれたことは何も他に曲がなかったからというだけでなく(もちろんそれもあるが)それなりに意味のあることだと思った。この2曲が明らかに過去のことを歌っているのに対して、市營葬儀は明確にPK shampooの、ひいてはヤマトパンクスの現在地点を歌ったものにほかならないからだ。まるで望遠レンズの圧縮効果のように、彼の歴史が凝縮された3曲だと思った。

↑ここ適当

市營葬儀が彼の過去の曲である「京都線」をかなり意識して作られたものであることは、曲中の「環状線」の歌詞や、続くロングトーンから始まるサビからみても明らかだろう。

ヤマトパンクスにとって京都線は離れていってしまった君と過ごした日々の表象だ。あの頃は君とふたりでHi-STANDARDを聴きながら乗った京都線。そんな君は列車に乗って遠く遠く離れていってしまう。そんな君と京都線を忘れられずにいる。

では、市營葬儀における環状線はなんの表象か。一方通行/往復を繰り返す京都線と違って、環状線は君をどこにも連れて行かない。ただ、同じところをぐるぐると回り続ける。君はもしかしたら次の駅の京橋にかかった虹で誰も知らない町まで行ってみたいのかもしれない。だが、そんなことは本当に起こるはずもなく、日常はいつまでも続く。それは決して楽しくもなく、「悲しいことじゃない」。ただ無感動だ。無感動の、声にならなさだけが環状線は内包している。その中に忘れられない君はいる。

京都線が過ぎ去ってゆく過去の表象なら、環状線は、終わらない日常の表象だ。

「寝るときは髪を乾かして

脱いだジャージはちゃんと籠に入れておいて

馬鹿なTVばかり見ないで」

も続くのは生活だ。環状線のように同じことを永遠に繰り返すだけの日常だ。

だから、「君を忘れ」ることもずっとできず、君を思い出してしまうことすら日常の一部になって、無感動の生活の中に埋没してゆく。

そこにかつて「京都線」で歌われたようなセンチメンタルさはもう失われてしまった。ただ、「声にならない」無感動だけがある。君に対する感動の枯死。

それは表現者であるヤマトパンクスにとって、辛く、苦しいことだろう。アーティストとしての苦悩だ。

それは、次の曲を書けない苦悩、アルコールを手放せない苦悩すらも取り込んで彼の中に巨大なものとして立ち現れる。

その発露がこの曲だ。

ヤマトパンクスに宿る苦悩がこの曲には凝縮されている。

しかしこの曲は暗い曲ではない。

暗い感情をノイズに埋没させ美しいメロディに乗せることができるのが、このバンドの素晴らしいところだと思う。

そう思った。

そんなところです。