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映画『音楽』感想 /『音楽』はロックを自律させる

今更、映画『音楽』をみて、それをみたのももう3週間くらい前なのだが、ようやく自分の中で意味がわかってきたから感想を書く。物語の内容に踏み込んだ箇所があるため、ネタバレを避けたい方は先に映画を視聴してほしい。

 

 

『音楽』は、空白の映画だ。

 

主人公研二が「バンドをやらないか」と仲間たちに発言した直後、画面には一分近い無音の時間が流れる。
主人公たちのバンド「古武術」がはじめて演奏をした瞬間、二本のエレキベースとスネアが狭い部屋に歪んだ響きを産み出した。その響きは不自然に感じられるほど長く続く。

この表現は鑑賞者に空白の視聴体験を与えるためで、それ以外の要素は容赦なく切り捨てられている。
そこで切り捨てられるものは、大衆向けのアニメーション作品に共通する垢ぬけない俗っぽさや、ポピュラー音楽を聴いたり、映像作品を鑑賞したりするときに考えずにはいられない背後の歴史的な文脈だ。

 

では、この映画はそういった物語を描くうえで不可欠にみえるような要素を捨象し、映像の中に多くの空白を産み出すことで、鑑賞者になにをみせたかったのか。

それは、「《音楽の自律性》はロックにも宿る」という強烈な主張であると俺は考える。噛み砕いていえば、「ロックは《ホンモノ》である」という主張である。

俺たちは、音楽(特に、ポピュラー音楽)を聴取し、その音楽がよいと感じるとき、あたかもその音楽が真正性を獲得している、要するに「ホンモノである」というような感想を抱く(ヒップホップの評価の形容として「リアルな」ということばがしばしば用いられるのはそのわかり易い例だろう)。

 

例えば、パンク・ロックというジャンルを聴取するとしよう。そのとき、お気に入りのバンドが反体制的で、反商業的な態度を顕示することでそのバンドが、ひいてはパンク・ロックというジャンル自体が他のロック音楽よりもホンモノである、という実感を得て満足感を得るのである。これが「音楽を消費すること」の実態だ。
しかし、ここでいうホンモノとは、本当の意味での《ホンモノ》ではないことに注意しなければならない。「消費する」ということばを用いたことからも示唆されるように、ポピュラー音楽は疑いの余地もなく市場経済の原理に巻き込まれた消費財である。先程の例ならば、そもそも「ジャンル」の概念自体が極めて商業的な文脈のもとで編成された概念だ。ロック音楽においては、その価値(要するに、商品価値のことである)が反商業性の強さによって増幅するという非常に倒錯的な図式が定律していることがその理解を難しくしている(そのあたりの難しいお話は専門書に譲ろう)。

 

つまり、俺たちがポピュラー音楽を聴いてそれがよいと思うことは、決してその音楽が芸術的知見から優れていると判断しているのではなく、単に消費財としてその音楽が優れているからによる判断なのである。

では、「芸術的知見から優れていると判断」することに耐えうる音楽とは何か。
それは西洋芸術音楽である。そして、西洋芸術音楽は一般に《音楽の自律性》を有している、つまり種々の芸術分野と同様に、美的なものとして自律していると考えられている。諸々の文化的・社会的な価値の枠組みから独立した価値体系を持つものとして、本当の意味で《ホンモノ》の音楽が西洋芸術音楽である。

……というのがポピュラー音楽と西洋芸術音楽を取り巻く一般的な言説だろう。ポピュラー音楽の発明と普及から一世紀以上が経過しこの考え方も少しずつ変化している実感はあるが、《ホンモノ》である(=《音楽の自律性》を持つ)西洋芸術音楽、《ホンモノ》でないポピュラー音楽という強力な対立構造は未だ根強いといってよい。

この映画がしようとしていることは、この構造の書き換え、要するに《音楽の自律性》の適用範囲の拡張であるように思う。その書き換えにおいて鍵になるのが、劇中で示唆される「衝動」の扱い方だろうと、俺は考える。

 

映画の内容に話を戻そう。

登場人物のひとり、音楽オタクの青年森田に感情移入することはたやすい。むしろ、この映画は彼への共感を前提に作られているといってよいだろう。彼の考え方や、唄う歌は強固に編成された歴史的な文脈のもと俺たちに訴えかけるのであり、その音楽の消費態度は現代の俺たちと近しい部分が多い。
一方で、森田の自意識の揺れ動きにのみ着目することはこの映画の望むところではないだろう。
例えば彼が「古武術」の演奏を目の当たりにしたときに描かれた「振り向いた牛」「福助人形」「炎上する飛行船」がバラバラに崩れ去る心象風景や、友人に「クリムゾン・キングの宮殿」をおすすめするシーンがあるが、これはあまりに「わかり易すぎる」のである。卑近すぎる。そしてその表象は強く過去の文脈に依存した類型的なものだ。それはポピュラー音楽が《ホンモノ》ではないという過去の言説と並行するものでしかない。

森田は「古武術」の演奏を「ロックの原始的な衝動を体現した」音楽であると評価するが、その評自体がすでに音楽を規定の枠組みでしか評価できていないことの表れでだろう。
だから、この映画をみて「初期衝動の言語化」だと評した鑑賞者の視点は劇中の森田と同じアイレベルでしかない。そして、後述するが最初の演奏は「衝動」ではない。
より一歩進んだ解釈を行うには、やはり主人公研二に目を向ける必要がある。

森田と研二はあらゆる面で対照的な存在として描かれている。研二を取り巻く環境は典型的な80年代のそれだが、彼自身の精神性からははきわめて注意深く時代性が漂白されている。彼は徹底した無感動の姿勢を貫くし、冒頭に述べた作劇上の空白はつねに彼を中心に展開される。

先述したように、空白はこの映画がそういった音楽や映画を視聴するうえでどうしても考えずにはいられない様々な文脈を捨て去る、要するに研二の精神性を映像上に落とし込むためのものだ。

学校での生活も、他行の不良との喧嘩も、テレビゲームも、ガールフレンドも、そのどれもが空洞なのだ、研二にとって。それらは全て既存の価値観の枠組みで構成された繰り返しの一部でしかない。研二はそういったものに価値を感じていない。そして本当に価値があるもの(=《ホンモノ》)を探している。

そして彼は音楽に《ホンモノ》を求め、楽器を手にしバンドを始める。しかし、それも彼にとって《ホンモノ》ではなかった。なぜなら、「古武術」の音楽は一見「衝動」的なもののように見えるが、その実ポピュラー音楽の表象内の要素の再編成でしかないからだ。エレキベースによって刻まれる8分音符がそのことを端的に示している。
だから彼はすぐにエレキベースに興味をなくしてしまった。
エレキベースを手にとって仲間と始めたバンドさえも、それがロックバンドと接続されやすい位置にあった時点で、空洞だったのだ。

だから彼はリコーダーを手にとった。ここでのリコーダーは西洋芸術音楽の表彰ではない。
音楽が意味を持つ以前の音楽の表象だ(この時の演奏で森田はまさしく“歴史的遺物”と呼ぶにふさわしいダブルネックギターを弾いていたこともあまりに対照的である)。

研二の演奏は、決して類型化によって説明のできない「衝動」だ。研二のリコーダーは「快楽的でもなければ情緒的でもない、はたまた教養的でもない」。ただただ「衝動」的だ(快楽的、情緒的、教養的とはポピュラー音楽の消費態度として典型的なもの(快感を得るための消費・感情を動かすための消費・知識をひけらかすための消費)で、それはポピュラー音楽を《ホンモノ》から遠ざけてしまうものだ)。この「衝動」は、ポピュラー音楽的な評価の手段からは不可能であるが、だからこそ研二にとってそれが空洞でない音楽だったのだ。

それは商業的な消費の回路にも回収できないがゆえに、《ホンモノ》の音楽、つまり《音楽の自律性》(文化的・社会的な価値の枠組みから独立した価値体系)を有する音楽になりえた。そして研二の「衝動」に呼応するように森田たちのバンドも演奏に参加する。森田がロックの表象であるダブルネックギターを研二のリコーダーに合わせた時、《ホンモノ》としての研二の演奏からジミーペイジまでのロックはシームレスに接続される。《音楽の自律性》はロックにまで拡張されたのだ。

その瞬間、研二の空洞だった内面は満たされ、彼は往年のロック・スターのような歌声で高らかに歌い上げたのだった。

しかし、「衝動」は持続的なものではない(それは、ポピュラー音楽における《音楽の自律》性は一過性のものであるという示唆のようにも思える)。ロック・スターのように歌うことは自らの精神性の担保をポピュラー音楽に求めるものであるからだ。エピローグで研二はガールフレンドをディズニーランドに行こうと誘う。彼の内面は空洞ではない。しかし二度と「衝動」によってポピュラー音楽を《ホンモノ》へと昇華させることはないだろう。

俺が、終演後に感じた妙な寂寥感はその虚しさのようなもののせいだったのかもしれない。

 

最後に、主題歌のドレスコーズピーター・アイヴァース」の歌詞が非常に精確にこの映画の精神性を表象していることを示しておこう。

「パンク フォーク ラップ えっと なんだっけ なんでもいっか あっと驚く 音楽を」

 

 

そんなところです。