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すずめの戸締まり感想──「きみとぼく」の間を埋めるもの

色々と考えることが多い映画だったため、色々と書いている内に散漫な内容になることが避けられず、以下の3点に論点を分割しそれぞれを個別的に記述することをこの感想文の目標とする。たぶん、それぞれを別々に読んでも話は通じるようになると思う。

①東京の描かれ方
②現代の物語に典型の構造
セカイ系とよばれるサブカルチャーの精算と震災をエンタメ映画の題材とすること

 

論点① 東京について

新海誠という作家は、『秒速5センチメートル』以降必ずと言っていいほど東京を舞台(の一部)として設定し、つねに周縁部(=地方)との対比の中で東京を描いてきた。
『秒速』では、東京はすべての人が集散する場所であり、それゆえに誰もがドライでクールにならざるをえないという残酷さ(それはあの有名なテーマソングでも表象されていることだ)が描かれる。対照的に地方はすべての人が親密にならざるをえないという残酷さを描くための舞台装置として機能する。
私は、その東京を取り巻く物語は『君の名は。』まではかわらずにはたらきつづけていると考える(少なくとも、新海誠作品の中では)──「東京に憧れる地方」「中心⇆周縁」という両部の構造は、『君の名は』におけるもっとも基本的な物語のありかただ。

東京は2010年代の日本においてもまだかろうじて夢と希望が残っている場所で、そこを目指しすべての人が集ってゆく。新海誠が東京に託したそんな物語がそれを享受する私たちにとっても普遍的な物であったから、『君の名は』は歴史的なヒットを記録できたのだろう。

一方で、新海誠は『天気の子』において既存の東京の物語の更新を試みた。『天気』において東京は『君の名は』とは対照的に大人の薄汚さばかりが強調される街として描かれ、主人公たちは文字通りその街を水に流すことで清算してしまう。「大人」の代表たる須賀の「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」の台詞はこの作品を象徴する態度だし、東京という街が物語に耐えうる強度をもはや有していないことを端的に表している。東京の暗い部分ばかりが描かれ、その暗さに少年少女が抗う映画だった。

今作『すずめの戸締まり』では、もはや東京はかつて震災があった場所の一つとして描かれるばかりで、物語の中心ではない。『すずめ』は純然たるロードムービーの形式を取るためだ。『天気』において東京を水没させてしまった新海誠、それを受け入れた私たちはもう東京を物語の中心に置くことはできない。東京に対する想像力が明確に断絶している。『君の名は』そして『天気』、『すずめ』。映画が公開される時々においてこの世界は急速に移り変わりすぎているし、映画監督はその要請に性急に応える必要がある。
もはや東京の町に物語を見出すことはできない。
ではどこに物語を見出さなければならないのか?
新海誠はどこに物語を見出したのか?
それは、この作品を、そしてこの時代を象徴する「軽薄さ」にあると私は考える。
(論点②に続く)

 

論点② 現代の物語の構造について

『すずめの戸締まり』は物語の要素を既存の作品から借用することで成り立っている。
村上春樹の短編小説だけでなく、唐突に引用されるジブリ映画の諸要素、カーステレオでかけられる懐メロ、もしかしたらエヴァンゲリオンの要素もあったかもしれない。
もしこの映画をみたあなたが「これってあの作品のあの場面っぽくない?」と感じたならば、それはおそらく意図的なものだ。
あまりに無節操にも思えてしまうカットアップの連続。それによって『すずめ』の物語は構成されている。
この映画は自らの物語を成立させるための独自の物語の体系を有していない。
震災という舞台装置から、「みみず」のモチーフ(村上春樹の短編小説より)、印象的な挿入歌まですべてが既存の表現文化の流用だ。

同等の構造は現代の他作品においてもみることができる。

例えば、シティポップリバイバルの文脈において語られるvaporwaveのムーヴメントも、それを受けた近年の懐古趣味も、そして莫大な資本を注入されたメディアミックスを展開する『チェンソーマン』だってそうだ。
チェンソーマン』の物語は、出典を他のサブカルチャーに頼り続けることで成立している(⇔同じジャンプ漫画を例に取るなら『ワンピース』は対照的だろう。『ワンピース』の紙面に過剰に溢れる情報のすべてが独自の物語の体系だ)。

もっとも私はそれが作品を陳腐にさせる癌だとは思わない。むしろそれは作劇における物語、あるいはさまざまな演出をアウトソーシングすることができるほどに現代の表現文化のアカシックレコードが充実したことの証拠なのだから。

しかしながらその代償として(?)これらの作品群には決定的な軽薄さが取り巻くこととなる、(こういう断定の仕方は非常に危険だがあえていうならば)それは時代の空気を反映したものなのかもしれない。ちょうど、無節操なカットアップによる音楽がムーヴメントへと繋がった渋谷系と呼ばれる音楽とその時代のように。

話を戻せば、『チェンソーマン』においても、『すずめの戸締まり』も(もしかしたら『シンエヴァ』も)決定的に軽薄さが取り巻いている。

それは一度でも物語に触れたあなたなら感じることができるだろう。

現実の災害としての震災を描くにも関わらず(描くからこそ)軽薄に芹澤の「闇が深い」のひとことに回収させてしまうのである。その闇の深さの背景にある物語は『魔女の宅急便』であり80年代のポップスなのである(その背景には『シンエヴァ』で暴かれたジブリ的なものの限界もあるだろう(過去記事参照))

軽薄さによってでなければ重たい話を描くことができなくなっていることは危惧すべきことなのかもしれないが...(論点③には続きません)

 

論点③ セカイ系、震災、村上春樹

かつて、セカイ系という言葉があった。90年代後半以降のサブカルチャーの潮流を説明するために論客たちがこぞって用いだした言葉である。

1995年前後、『新世紀エヴァンゲリオン』を代表に決定的に内面に移っていったサブカルチャーの想像力は、「世界」を「セカイ」と読み替え少年少女の交流と世界の命運を安易に接続させることをよしとする情況を作り出す。

それは社会の気分を形容するのにあまりに便利だったからかもしれない(詳しくはセカイ系に関する本がたくさん出ているのでそちらを読むといいと思います)。

そしてその中心となった若い作家の一人が、たったひとりで『ほしのこえ』を製作した新海誠だった。

続く『秒速5センチメートル』では、新海誠は舞台を「宇宙と地球」から「東京と地方」の対立構造へと書き換えセカイをより内面化して描いた。そこで常に描かれるのは「きみとぼく」(=主人公の少年とヒロインの少女)と「世界(社会)」の構造の相容れなさだ。「ぼく」は世界の構造の残酷さをまえにして「きみ」を取り戻そうともがき苦しむ。

続く『君の名は』『天気』ではそれがより強調して描かれているわけだが、ここで注目したいのは『天気』において「ぼく」は「きみ」と「世界」を天秤にかけて「きみ」の方を選んだ点だろう。
セカイ系は「社会に歯向かって、世界を書き換えてもいい」という方向にシフトしていった。そういう意味で、新海誠セカイ系を更新したのだ。

さて、今作『すずめの戸締まり』では、描かれていた社会の構造の残酷さは地震というなんの感情も意思もない無機物で、その発生源は現実世界とは切り離されたパラレルワールドに設定されている。その設定に強い影響を与えたといわれる、村上春樹阪神淡路大震災後に発表した一連の短編のひとつ「かえるくん、東京を救う」は、直接的に震災をとりあつかった内容であり、こちらの作品ではみみず=災害は現実世界の最深部、歌舞伎町の地下深くに眠る存在とされていた。一方で『すずめ』における「みみず」は現実世界とは切り離され、別の時が流れる空間に存在する。そして鍵を締めて、その世界=構造と、「きみとぼく」(この場合「きみとわたし」)の間を遮断する、ここで新海誠セカイ系との明確な離別を表明し現代思想的な、ゲンロン的な考察の材料とされることを軽妙に躱す。

歌は世につれというが、この映画はそういった安易に社会情勢と物語を結びつける言論行為に毅然と反抗している、軽薄さという武器をもって。懐メロもいいっしょ?なんていう芹澤の言葉をもって。

しかし。
繰り返すようであるが、そこまでして描かれる物語の根幹をなすのは実際の災害である。11年前の震災だ。
震災という現実の災害を少年少女に託すことの危うさは避けて通れないもので、げんに災害をエンタメとして消費する作品として『すずめ』は批判の槍玉にあげられてきている。

その批判はもちろん一考の余地があるものだと考える一方で、私はこの作品が単に「災害」を「エンタメとして」「消費する」映画だとは思えない。

私は、災害を考えた作品を作るときについてまわる災害を消費してしまうというジレンマを、新海誠は『すずめ』に「他人の靴を履く」「他人の運転に身を任せる」のテーマを持たせることで克服したと考える。

他人の靴を履かなければ他人の気持ちはわからない、というのはイギリスの諺だが、『すずめ』では靴の表象を繰り返す中でそのテーマを顕示させる。他人の靴を履き、、その地の声に生きた人々の生活の声を聞かなければ閉まらない扉。

その扉を巡るなかで、すずめは常に誰かの運転に身を任せ、自分の過去にまつわる土地を目指す。他人の運転に身を任せる中で過去を精算する(──これは、またも村上春樹の短編小説『女のいない男たち』そしてそれを原作とした映画『ドライブ・マイ・カー』と全く同質のテーマだといえる)

災害という無異質な構造と、わたしの間を埋める生活を描ききる。

セカイ系、きみとぼくと社会の間にある決定的な間隙を、東京さえも周縁化して描くロードムービーという形式で物語を描き(その物語は既存の作品群のカットアップという軽薄さに満たされることでその強度を確保する)、そしてセカイ系の限界を「きみとぼく」と「社会」の間に生活を見出すことで克服する。
死ぬのが怖くないと断言したすずめは生活を知り、そして過去の精算を試みる。素直に生きていたいと言う。
そんな人間讃歌を唱えるこの映画を、俺はたんなる災害の消費だとは言い切れない。言いたくないのかもしれない。
もっと朗らかで、暖かいものの片鱗を感じてならないのだ。