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2022年聴いてよかったアルバムを10枚選びたい

こんにちは、皆さん今年は音楽聴きましたか?俺はそこそこ聴きました。良かったアルバム10枚集めたので、順不同で紹介します。みんなも良かったアルバムがあったら俺に教えて下さいね

 

① ハネダ!ハネダ!ハネダ!/ SUNNY CAR WASH

悲しすぎて最後まで聴けなくなるラストアルバムは俺の中に何枚かあるんだけど、このアルバムはまさにそれで、いっつも#13キルミーで聴くのをやめてしまって、#14それだけに辿り着けない。再録が多めのまさに今までのサニカーの歴史を凝縮したようなアルバムで、その中でも#11ダーリンは比較的最近の曲なのだが、他の曲よりも低めのキーで歌われることがまるで時間の経過を示唆しているようで、子供時代の終焉を表明しているようで、本当に悲しくなってしまう。ロックバンドというのはいつかはかならず終わるもので、遅いか早いかの違いでしかないのに、ここまで俺を悲しくさせてしまうのはこのアルバムにすべての時間が内包されているからだと思った。

 

② Do Wah dadadady/ the  dadadadys

躁のアルバム。バンドは流動体のようなものだから、終わりがあればかならず始まりもある。teto時代のアルバムは躁鬱の高低差でアルバムとしての幅を持たせようとしていた気がするけれど、dadadadysのアルバムはダウナーな躁かアッパーな躁かの違いだけでアルバムを作っている。そう考えればdadadadysのスタンスはtetoとはあらゆる面で対照的で、tetoは銀杏BOYZ以降の邦楽ロックを明確に意識したオルタナティブサウンドを作ろうとしていたけれど、dadadadysでは既成の邦楽ロックはもはや参照されておらず、テクニックよりセンスが先行してとにかく好きな音楽を無節操にカットアップし続けている印象が強い。そういう意味だと態度としては邦楽ロックというよりポストパンクという形容が最も適するアルバムです。

 

③ 10MICROPHONES AND DISTORTED WAVEFORMS!!/ hirihiri, libesh ramko

躁つながりで。純粋に聴いた回数だとこのEPが今年で一番多いはず。そう考えると今年はとにかくhyperでpopな1年だった、ユリイカのhyperpop特集が今年の春に出てから俺はずっとhyperpopという魅力的で仕方ない音楽のことを考えていた。だがしかし、その一方で夏の終わりあたりから急速にhyperpopという用語自体が陳腐化しているような気もしてならない。資本がhyperpopに入り込んできている。個人的にはlazydallとokudakunがニートtokyoで明言して以降。もちろんlazydallもokudakunも、hirihiriもramkoも、hyperpopという音楽に安住するようなミュージシャンだとは思わないので、今後のシーンを牽引する存在に成長していくことを本当に期待している。hyperpopという一瞬の盛夏に放たれたスリリングなアルバム。

 

④ assimilation/ asstoro

hyperpopより2枚目。hyperpopというラフで決してメインストリームではないムーブメントでここまでしっかりしたフルアルバムをリリースしたasstoroに最大限の敬意を示します。単純に考えて#3actのフロウが最高すぎる。単純に考えて。言い忘れてたけどhyperpopに関しては過去記事で好き勝手に語っているのでそちらを参照のこと。hyperpop関連のイベントってほとんど都内でしかやってないから大阪にいる俺は困ってます。関西に来てください。

 

⑤ NLO/ vq

hyperpopより3枚目。vq(ex:vo僕)の感性と音楽的なスタイルってかなり「邦楽ロック」と連続性のあるものだも思ってるから、邦ロックが好きなひとはvq絶対にいいと思うと思いますよ、俺は。ノイジーで叙情的という意味ではシューゲイズとも連続している。#2abcと#4noise  ageは大名曲です。それにしても特に改名後(でも改名前のvo僕って名前はまさに言い得て妙だったから好きだったな。内省的な歌詞を自分の声で歌うという決意+それでも「ぼ、ぼく」とどもってしまうやるせなさ+hyperpop特有のチョップをかけられたボーカルによって子音が連続する名詞って感じで、様々な意味が付加されていて。)その名前を捨てて、匿名性に覆われたジャケットと曲名のアルバムを出すというバランス感覚は、きわめて現代的かつ刹那的なさみしさを体現していると思う。

 

⑥ ほぼゆめ/ Kabanagu

Kabanaguがhyperpopかどうかは議論の余地がかなりあるためこのアルバムがhyperpopかどうかは保留で。少なくとも、このアルバムはhyperpopの括りに入れるにはあまりに躍動している、そしてひずんでいない、しかしゆがんではいる。2022年のインターネットのゆがんだ感性をまっすぐにアウトプットしている。popに勝負をかけつつもpopに徹することへの気恥ずかしさという、インターネット特有の感覚を鋭すぎる感性を持って鋭敏に捉え続けている…、#5騒ぐ日のあまりに繊細な詞を乗せるあまりに緻密なmixの構成や#9熱気の鮮やかな色彩と相反するハチャメチャな編集などはその象徴でしょう。上質なjpopに破壊と再構築のプロセスを加えることで、明確に次のステージへと昇華させることに成功している。

 

⑦Escapism/ TEMPLIME+星宮とと

futurebassからポストパンクまであらゆるサブカルチャーを軽々と走り抜ける星宮ととの快進撃が止まらない。ジャンル的な共通項が拡散しているはずの4曲(+1曲)なのに、試行錯誤とミクスチャーを重ねた末のアウトプットによって彼女にしかない音楽を完璧に鳴らしている。KBSNKの優しいハモリが印象的な#1Escapismから#3Candy Heartまで以前の作品と比べると明らかに少ない音数で的確な表現を行っている。ともすればガチャガチャ感が先行しがちなキラキラ系のPOPSでここまでの完成度なのは...。個人的にスマッシュヒットだったのが#4Lonely Girl,#5Super Lonely Girlのラインで、こちらもまた少ない音数でhyperpopにも通じるナードっぽい編集感覚、お見事です。個人的には、星宮ととはhyperpopだとかインターネットの片隅でブツブツ言っていたところ数日前に配信されたEscapismのリミックス集の一曲をhirihiriが担当していて、やっぱり俺は間違ってなかったんだ!とひとりでニヤニヤしています。

 

⑧Walk Through the Stars/ ピーナッツくん

個人的にぽこピーって活動初期からのファンだから感慨深い。ぽこピーのコンビってピーナッツくんのオタクっぽさとぽんぽこのオタクっぽくなさのバランスの妙だと思っていて、ピーナッツくん単体のプロジェクトだとオタクっぽさばかりが先行してポップさが失われるのではないかと勝手に心配していたのだが、すみません、めちゃめちゃポップでめちゃめちゃhyperでめちゃめちゃdope(死語)でした。#1Roomrunnerから#12Walk Through the Starsまで一貫するいなたいギターサウンドとピーナッツくんのボイスってまさしくhyperpopなんですよね、hyperpopという言葉をあえて使わないならば激しく現代的、最先端。もちろんプロデュースをつとめるnerdwitchkomugichanの感覚も十分に反映された結果ではあると思うのだが。ここまでのアルバムを出しBIGCATを一瞬で埋めてしまうのだから本当にすごい。すごすぎる。

 

⑨'77LIVE/ 裸のラリーズ

思えばhyperpopもノイジーな要素を多分に含んだ音楽だが、たぶん日本ではじめにノイズが主体の音楽を鳴らすことができた最初のバンドの一つが裸のラリーズだろう。その主宰たる水谷氏の訃報が飛び込んできたのは確か去年末のことで、卒論で書くくらい裸のラリーズが大好きだった俺は色々と考えることが多かったのだけど、こうやって公式盤なんてものがストリーミングで配信されてみて、今までにないくらいいい音質で#2夜、暗殺者の夜を聴くことができて、本当に涙がこぼれそうになる一方で、ここまで裸のラリーズを伝説的な存在へと昇格させたのは徹底的な情報の隠蔽によるブランディングの側面が間違いなくあったのだなと強く思う。作られた伝説に踊らされた、とまでは言わないが例えば頭脳警察のように継続的に音源をリリースしながら精力的に活動を続けているバンドも伝説と読んで然るべきものではないのだろうか。話が逸れましたが、このアルバムは間違いのない伝説的な名盤ですよ。

 

⑩ 物語のように/坂本慎太郎

今年観た沢山のライブの中でもっとも印象的だったライブがこのアルバムのリリースツアーの沖縄公演だった。ソロ以降の坂本慎太郎は常に現代のテクノロジーに反抗する姿勢を持ちつづけ、高度に機械化された社会に対する危惧を表明しつつそれに寄り添う"ナマ"の音を追求し続けて来たと思うのだが、それが沖縄という生命が躍動する土地で、いや沖縄という土地だからこそ花開いたというか、バチバチになったというか、そんな感じです。

アルバムの内容を振り返れば、全編を通して興奮でもシラケでもない、完全に無機質でニュートラルな演奏(そしてそれはもしかしたら原初の音楽に寄り添った感覚に近いのかもしれない)から、ともすれば「チルい」なんて言葉で回収されかねないゆったりとした構成の一方で、チルるには音がタイトすぎる、ナマすぎるキワッキワの肉弾戦というか、そんな感じです。

すずめの戸締まり感想──「きみとぼく」の間を埋めるもの

色々と考えることが多い映画だったため、色々と書いている内に散漫な内容になることが避けられず、以下の3点に論点を分割しそれぞれを個別的に記述することをこの感想文の目標とする。たぶん、それぞれを別々に読んでも話は通じるようになると思う。

①東京の描かれ方
②現代の物語に典型の構造
セカイ系とよばれるサブカルチャーの精算と震災をエンタメ映画の題材とすること

 

論点① 東京について

新海誠という作家は、『秒速5センチメートル』以降必ずと言っていいほど東京を舞台(の一部)として設定し、つねに周縁部(=地方)との対比の中で東京を描いてきた。
『秒速』では、東京はすべての人が集散する場所であり、それゆえに誰もがドライでクールにならざるをえないという残酷さ(それはあの有名なテーマソングでも表象されていることだ)が描かれる。対照的に地方はすべての人が親密にならざるをえないという残酷さを描くための舞台装置として機能する。
私は、その東京を取り巻く物語は『君の名は。』まではかわらずにはたらきつづけていると考える(少なくとも、新海誠作品の中では)──「東京に憧れる地方」「中心⇆周縁」という両部の構造は、『君の名は』におけるもっとも基本的な物語のありかただ。

東京は2010年代の日本においてもまだかろうじて夢と希望が残っている場所で、そこを目指しすべての人が集ってゆく。新海誠が東京に託したそんな物語がそれを享受する私たちにとっても普遍的な物であったから、『君の名は』は歴史的なヒットを記録できたのだろう。

一方で、新海誠は『天気の子』において既存の東京の物語の更新を試みた。『天気』において東京は『君の名は』とは対照的に大人の薄汚さばかりが強調される街として描かれ、主人公たちは文字通りその街を水に流すことで清算してしまう。「大人」の代表たる須賀の「世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」の台詞はこの作品を象徴する態度だし、東京という街が物語に耐えうる強度をもはや有していないことを端的に表している。東京の暗い部分ばかりが描かれ、その暗さに少年少女が抗う映画だった。

今作『すずめの戸締まり』では、もはや東京はかつて震災があった場所の一つとして描かれるばかりで、物語の中心ではない。『すずめ』は純然たるロードムービーの形式を取るためだ。『天気』において東京を水没させてしまった新海誠、それを受け入れた私たちはもう東京を物語の中心に置くことはできない。東京に対する想像力が明確に断絶している。『君の名は』そして『天気』、『すずめ』。映画が公開される時々においてこの世界は急速に移り変わりすぎているし、映画監督はその要請に性急に応える必要がある。
もはや東京の町に物語を見出すことはできない。
ではどこに物語を見出さなければならないのか?
新海誠はどこに物語を見出したのか?
それは、この作品を、そしてこの時代を象徴する「軽薄さ」にあると私は考える。
(論点②に続く)

 

論点② 現代の物語の構造について

『すずめの戸締まり』は物語の要素を既存の作品から借用することで成り立っている。
村上春樹の短編小説だけでなく、唐突に引用されるジブリ映画の諸要素、カーステレオでかけられる懐メロ、もしかしたらエヴァンゲリオンの要素もあったかもしれない。
もしこの映画をみたあなたが「これってあの作品のあの場面っぽくない?」と感じたならば、それはおそらく意図的なものだ。
あまりに無節操にも思えてしまうカットアップの連続。それによって『すずめ』の物語は構成されている。
この映画は自らの物語を成立させるための独自の物語の体系を有していない。
震災という舞台装置から、「みみず」のモチーフ(村上春樹の短編小説より)、印象的な挿入歌まですべてが既存の表現文化の流用だ。

同等の構造は現代の他作品においてもみることができる。

例えば、シティポップリバイバルの文脈において語られるvaporwaveのムーヴメントも、それを受けた近年の懐古趣味も、そして莫大な資本を注入されたメディアミックスを展開する『チェンソーマン』だってそうだ。
チェンソーマン』の物語は、出典を他のサブカルチャーに頼り続けることで成立している(⇔同じジャンプ漫画を例に取るなら『ワンピース』は対照的だろう。『ワンピース』の紙面に過剰に溢れる情報のすべてが独自の物語の体系だ)。

もっとも私はそれが作品を陳腐にさせる癌だとは思わない。むしろそれは作劇における物語、あるいはさまざまな演出をアウトソーシングすることができるほどに現代の表現文化のアカシックレコードが充実したことの証拠なのだから。

しかしながらその代償として(?)これらの作品群には決定的な軽薄さが取り巻くこととなる、(こういう断定の仕方は非常に危険だがあえていうならば)それは時代の空気を反映したものなのかもしれない。ちょうど、無節操なカットアップによる音楽がムーヴメントへと繋がった渋谷系と呼ばれる音楽とその時代のように。

話を戻せば、『チェンソーマン』においても、『すずめの戸締まり』も(もしかしたら『シンエヴァ』も)決定的に軽薄さが取り巻いている。

それは一度でも物語に触れたあなたなら感じることができるだろう。

現実の災害としての震災を描くにも関わらず(描くからこそ)軽薄に芹澤の「闇が深い」のひとことに回収させてしまうのである。その闇の深さの背景にある物語は『魔女の宅急便』であり80年代のポップスなのである(その背景には『シンエヴァ』で暴かれたジブリ的なものの限界もあるだろう(過去記事参照))

軽薄さによってでなければ重たい話を描くことができなくなっていることは危惧すべきことなのかもしれないが...(論点③には続きません)

 

論点③ セカイ系、震災、村上春樹

かつて、セカイ系という言葉があった。90年代後半以降のサブカルチャーの潮流を説明するために論客たちがこぞって用いだした言葉である。

1995年前後、『新世紀エヴァンゲリオン』を代表に決定的に内面に移っていったサブカルチャーの想像力は、「世界」を「セカイ」と読み替え少年少女の交流と世界の命運を安易に接続させることをよしとする情況を作り出す。

それは社会の気分を形容するのにあまりに便利だったからかもしれない(詳しくはセカイ系に関する本がたくさん出ているのでそちらを読むといいと思います)。

そしてその中心となった若い作家の一人が、たったひとりで『ほしのこえ』を製作した新海誠だった。

続く『秒速5センチメートル』では、新海誠は舞台を「宇宙と地球」から「東京と地方」の対立構造へと書き換えセカイをより内面化して描いた。そこで常に描かれるのは「きみとぼく」(=主人公の少年とヒロインの少女)と「世界(社会)」の構造の相容れなさだ。「ぼく」は世界の構造の残酷さをまえにして「きみ」を取り戻そうともがき苦しむ。

続く『君の名は』『天気』ではそれがより強調して描かれているわけだが、ここで注目したいのは『天気』において「ぼく」は「きみ」と「世界」を天秤にかけて「きみ」の方を選んだ点だろう。
セカイ系は「社会に歯向かって、世界を書き換えてもいい」という方向にシフトしていった。そういう意味で、新海誠セカイ系を更新したのだ。

さて、今作『すずめの戸締まり』では、描かれていた社会の構造の残酷さは地震というなんの感情も意思もない無機物で、その発生源は現実世界とは切り離されたパラレルワールドに設定されている。その設定に強い影響を与えたといわれる、村上春樹阪神淡路大震災後に発表した一連の短編のひとつ「かえるくん、東京を救う」は、直接的に震災をとりあつかった内容であり、こちらの作品ではみみず=災害は現実世界の最深部、歌舞伎町の地下深くに眠る存在とされていた。一方で『すずめ』における「みみず」は現実世界とは切り離され、別の時が流れる空間に存在する。そして鍵を締めて、その世界=構造と、「きみとぼく」(この場合「きみとわたし」)の間を遮断する、ここで新海誠セカイ系との明確な離別を表明し現代思想的な、ゲンロン的な考察の材料とされることを軽妙に躱す。

歌は世につれというが、この映画はそういった安易に社会情勢と物語を結びつける言論行為に毅然と反抗している、軽薄さという武器をもって。懐メロもいいっしょ?なんていう芹澤の言葉をもって。

しかし。
繰り返すようであるが、そこまでして描かれる物語の根幹をなすのは実際の災害である。11年前の震災だ。
震災という現実の災害を少年少女に託すことの危うさは避けて通れないもので、げんに災害をエンタメとして消費する作品として『すずめ』は批判の槍玉にあげられてきている。

その批判はもちろん一考の余地があるものだと考える一方で、私はこの作品が単に「災害」を「エンタメとして」「消費する」映画だとは思えない。

私は、災害を考えた作品を作るときについてまわる災害を消費してしまうというジレンマを、新海誠は『すずめ』に「他人の靴を履く」「他人の運転に身を任せる」のテーマを持たせることで克服したと考える。

他人の靴を履かなければ他人の気持ちはわからない、というのはイギリスの諺だが、『すずめ』では靴の表象を繰り返す中でそのテーマを顕示させる。他人の靴を履き、、その地の声に生きた人々の生活の声を聞かなければ閉まらない扉。

その扉を巡るなかで、すずめは常に誰かの運転に身を任せ、自分の過去にまつわる土地を目指す。他人の運転に身を任せる中で過去を精算する(──これは、またも村上春樹の短編小説『女のいない男たち』そしてそれを原作とした映画『ドライブ・マイ・カー』と全く同質のテーマだといえる)

災害という無異質な構造と、わたしの間を埋める生活を描ききる。

セカイ系、きみとぼくと社会の間にある決定的な間隙を、東京さえも周縁化して描くロードムービーという形式で物語を描き(その物語は既存の作品群のカットアップという軽薄さに満たされることでその強度を確保する)、そしてセカイ系の限界を「きみとぼく」と「社会」の間に生活を見出すことで克服する。
死ぬのが怖くないと断言したすずめは生活を知り、そして過去の精算を試みる。素直に生きていたいと言う。
そんな人間讃歌を唱えるこの映画を、俺はたんなる災害の消費だとは言い切れない。言いたくないのかもしれない。
もっと朗らかで、暖かいものの片鱗を感じてならないのだ。

 

 

 

2022年秋に聴くべき国産hyperpopを紹介したい

こんにちは、皆さんhyperpop聴いてますか?

俺は聴いてます。

御託

hyperpopは、それが音楽ジャンルであるとか、音楽シーンであるとか言われていますが、俺はそのどちらでもないと思っていて、あえて言うならばhyperpopは一つの方法論のようなものだと思っています。2020年代のポップ音楽に共通する方法論。共時的に用いられだした音楽表現の方法。それがhyperpopです。ジャンルと呼ぶには繊細すぎるし、シーンと呼ぶには散漫すぎる。

それはちょうどJ-POPのそれに近い感覚かと。J-POPが示す範囲は明らかに曖昧です。スピッツ椎名林檎ファンキーモンキーベイビーズはみなJ-POPと言って良いけれど、それらは国内市場向けに制作されたポップ音楽というだけでJ-POPと呼ばれているのであり、ジャンル的な共通項を三者に見出すことは困難です。ただ面白いのは、(非常に言語化が難しいレベルで)それらはみなJ-POPという一定の方法論に基づいて制作されており、確かにJ-POP的であると言える点です。もしかしたら進行感を重視したコードとか、お決まりのように挿入されるギターソロとかがそう思わせるのかもしれません。...とにかく、俺たち日本人は無意識レベルでJ-POP的なものを受け入れる耳ができています。毎週Mステを見ていればそうなります。

話を戻せば、hyperpopもそれと同じことが言えると考えています。なぜなら、hyperpopは明らかに多岐に渡りすぎており、音楽ジャンル的な共通項が拡散しきっているからです。

ギャングスタ・ラップの流れをくむものから、ポストロック的なアプローチを試みるもの、同人音楽の色を濃く残すもの、ブレイクコアやナイトコアの直系と言えるもの......。それはなんだってよいのです。hyperなpopだといえる音楽はそれがhyperpopなのだから。そして、そんなノリのまま発達してきた音楽がhyperpopなのだから。

あえてここではその歴史的な経緯を追うことはしません。ユリイカのhyperpop特集を読めばだいたい分かります。てか日本語で書かれたほぼ唯一の文献となっております(2022年10月現在)

御託2

で、結局「hyperpopの方法論」って何?そんな言葉遊びみたいなこと言われたうえにユリイカ読めってそれは酷いんじゃないの。

わかりました。

もう少しだけ踏み込むならば、hyperpopには2点、必要条件として提示できる要素があると俺は考えています。かんたんな話です。

①hyperであること。つまり、既存の音楽よりも何らかの要素が超越していること、越境していること、過剰であること。それは、トラックの音圧でも、譜割りの複雑さでも、BPMの速さでも、オートチューンの過激さでも、まあなんでもいいのですが、それが過剰主義(マキシマミズム)的に表出したものであると。音圧の高いトラックも、オートチューンも、もはや当然のごとくポピュラー音楽に用いられる要素ではあるのですが、それがとにかくhyperに表出している。

②popであること。これは俺がhyperpopを語るうえで①以上に大事な点であるように思ってるんですが、popじゃないhyperpopはhyperpopじゃないのです。つまり、実験的な要素を盛り込みすぎていて、もはやpopさを失っているhyperpopはhyperpopではないわけです。変拍子が複雑すぎるとか、ノイジー過ぎてメロディが死んでいるとか、そんな要素の蓄積でハードコアすぎたり、アングラすぎる音になった音楽はhyperpopとは呼べません。そういう要素を盛り込んだ音楽を指す用語としてdigicoreなんて言葉が考えられたんじゃないかなとか思っております(ここ曖昧)。

なにはともあれ、ヌルいシティポップなんて聴いてる暇は完全にありません。マキシマミズムな電子の爆音は今しか咲かないのだから、皆さんhyperpopを聴くしかないのです。

本題

御託はさておき、ようやく本題です。以上を踏まえて俺が僭越にも2022年10月現在聴くべきhyperpopを紹介したいと思います。御託を書いていて疲れたのであとは足早にいきます。まあ聴けばわかる。

なるべく今夏以降にリリースされたものから日本国内のSpotifyでリリースされたもので、YouTubeでも聴けるものから選んでます。国内限定なのは国外シーンに俺が詳しくないからで、Spotify限定なのはサンクラを含めるとキリがなさすぎるからです。あと、これも俺の趣味でナードっぽいものが多いです、Tohjiとかめちゃめちゃかっこいいけどなんか怖い...怖くない?

hyperpopはナマモノ、連続体、運動体、まあなんでもいいのですが、とにかくその定義ごと蠢き続けているものですので、来月には鮮度を失っているかもしれませんが、悪しからず。

0 Stream (feat.hirihiri)/ somunia


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入門編です。入門編といったのは、hyperpopにしてはビートの音が小さいからで(サビはデカい)、hirihiri謹製のバキバキトラックは健在です。YACAニキのメロディセンスとsomunia氏の唄がPOPすぎるほどにPOPなせいで、トラックがバキバキなことに気付かないまである

1 10MICROPHONES AND DISTORTED WAVEFORMS!!/ hirihiri, libesh ramko


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hirihiriのバキバキビートをより堪能したいならこちら。ramkoさんとの共作の新譜です。俺はhyperpopって何?って聞かれたらhirihiriを聞けば分かるよ、って返します。#5のSUMMERTIMEとか来年にはクラシックになってていいくらいの名曲です

2 NLO/ vq


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hyperpopの重要な要素として「自己顕示」があると思っていて、それはhyperpopが元来性的マイノリティの自己表現として確立した側面があるからなんですが、性的マイノリティによる音楽シーンが悲しいことに活発でない日本では、hyperpopは10代くらいの若者の個人的で親密な自己表現の手段として用いられることが多いです。

vq氏の作品は俺たちTwitter世代より次の自己表現の(俺から見た)歪さが完璧に表現されています。インスタのストーリーやディスコ―ドが居場所の彼らは公開の場で自己を表明することを好みません。#2abcや#4noise ageはもはやクラシックと言っていい金字塔的な作品にも関わらず、削除と再upを繰り返されます。俺の世代にはないストーリー的な感覚。

vq氏をはじめとしたtrash angels周辺のミュージシャンはその志向がとても強い。サンクラが主戦場です。

3 assimilation/ asstoro


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俺がいま一番再生してるアルバムがこれです。というかここ一月くらいこのアルバムを再生しない日はないです。それくらいこのアルバムの完成度は高い、ここまでカッチリとまとめられたフルアルバムは国内のhyperpopでは少ないです。というかhyperpopはラフな音源が多いせいでむしろ特異でさえある。

音楽性はかなりhiphop寄りかつソリッドですね。この前ニートtokyo出てたときはギター弾き語りしてビビりました。


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4  sunameri smoke ft. Cwondo/ PAS TASTA


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シングルですが。国内hyperpopの旗手たちが集結したドリームチームにノーバシーズの近藤氏が加わった最高の編成(そういえば最近のノーバシーズもすごくhyperpopなんで聴いたほうがいいですよ)。hyperpopのはずがPOPすぎるあまり相対性理論とかそのあたりの音楽を聴いているときと同じ気分になってきます。古き良きインターネットの香りを感じてしまって本当に最高なのは、俺がインターネットボーイだったからでしょう。

5 Number 18s/ yung trash


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俺の神様はhyperpopさとまで言い切るyung trashの新曲。昔に共作でhyperpopwaveなんて曲も出してたように、hyperpopのミュージシャンって自分をhyperpopのミュージシャンと言いたがらない傾向が強いんですが、yung trashの場合かなり自覚的に活動しています。リリースを重ねるごとにエクストリームさを増していきつつもpopと呼べるギリギリのラインを常に更新し続けています。これが計算づくの感覚ならばそれはマジでやばい

6  skycave/ TEMPLIME+星宮とと


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tempimeってhyperpopだと思うんですけど、俺以外誰もtemplimeをhyperpopだと言っていないのでもしかしたら違うのかもしれません。星宮とともhyperpopだと思ってます。まあ聴けば分かる

以上

(仮題)AIは作家を殺すか?

(俺はバキバキの文系なのでAIに関する技術的な話は一切出てこないです)

AIの発達が凄まじい。

正に日進月歩とはこのことで、先月できなかったことが今月すぐにできるようになっているのだから、来月には俺の想像もつかないようなことができるようになっているのだろう。

例えばイラストを生成するAIならば、ついこの前までは「風景画や抽象的な図柄ならできるけど、いわゆる萌え絵みたいなイラストはむずかしいよね〜」なんて言われていたはずが、今や一説によるとpixivの新規投稿イラストの半数がAIによって生成されたものであるとか、DLsiteのCG集販売数ランキングの殆どがAI産であるとか、あることないこと言われながらとにかく「AIによる萌え絵」はイラスト産業に大きく食い込み始めている。明らかに、一瞬にして。生成のためのキーワードの羅列(所謂「呪文」)の文法さえ習得すれば、誰にだってそれこそ自動的に、萌え絵を生み出し続けることが可能なのだから、それはそうだ。

今や特定のイラストレーターの画風すらほぼ完璧にコピーできるようになりつつあり(この前なんて、かにかま大先生の画風を完璧に模写したAIイラストを見かけた)、「このイラストAI産か手描きか?」なんてクイズが成立するほど精緻であり、去年だったら、いや先月だったら想像もつかないような状況がここにはある。

そうなると問題になるのは当然、(著作権などの問題も内包した)イラストレーターの仕事はAIに奪われるのか?という議題だ。より視点を広げ、近い未来に小説や音楽、映画のようなあらゆる表現文化を人間が手作りしたそれと遜色ないクオリティでAIが生成できるようになったならば、AIはクリエイターを無化するか?AIは作家を殺すか?という議題だ。将来あらゆる仕事がAIに取って代わるようになるといわれているが、その端緒となるのがクリエイター、作家であるというわけだ。

 

結論を急ぐようであるが、その自分なりの答えは「たぶん違う、もしくは部分的にそう」(←アキネイターみたい)だ。少し踏み込むならば、「作家性を求められる分野のクリエイターは生き延び、そうでない領域のクリエイターは殺される」。そりゃそうだと言われればそれまでだが、そうとしか言えない。

では、「作家性を求められる分野」とは何か。音楽を例に取れば、クラシック音楽は常に「誰々の何々」と表象されるように、作家性が極限まで重要視される分野だ。より「正統な」芸術においては誰が作ったか、それが最大の関心事であることはデュシャンの泉が鮮やかに証明している。

若しくは、ロック音楽のような、作曲者と演奏者が同一の「自作自演」の音楽は作家性が重視される傾向が強い。例えばあなたがスピッツのライブに行ったことを話すときに、「スピッツを聞きに行った」とは言うが「ロビンソンを聞きに行った」とは言わない。あなたはスピッツのライブに行くとき、草野マサムネの姿を見に行くのであり、草野マサムネの演奏や歌唱からにじみ出る彼の人間性を目撃しに行くのだ。だから、仮に「スピッツの音楽と聞き分けられないAIの作った音楽」が生み出されたとしても、その音楽がスピッツの食い扶持を減らす脅威になるとは決して思えない。なぜなら私たちはスピッツを聞くときにそのメロディの連なりの先に草野マサムネの幻影を追いかけるからだ。追いかけざるをえない。これはイラストでも小説でも程度は違えど同じことだろう(小説の場合音楽よりも作家性は需要視され、「正統でない」萌え絵のようなイラストの場合は軽視されるのかもしれない)。作家性を取り去った芸術はこの限りにおいて芸術とはいえない。いかにそのクオリティが高くても、芸術にはなることができない。かにかま先生の精密なコピーも、それがかにかま先生が描いたものでないかぎりそこに価値は見出されない。

 

反対に、「作家性が求められない分野」とは何か。例えば、ダンスミュージックがそれだ。ダンスミュージックはフロアにかけられて踊ることが目的の音楽であり、クラブに行く人間はかけられた音楽が、「どのDJによってかけられているか」を重視こそすれ「誰によって作られた」かはさほど気にしないだろう。このように、「目的が先行する音楽」についてはその傾向が強い。ミューザック(所謂BGMのこと)のような音楽はその極北だろう。エレベーターの中、スーパーマーケットやコンビニの店内、テレビ番組やYouTube動画の背景に流されるその音楽は「興味深いのと同じくらい無視できるものでなければならない」(ブライアンイーノ談)からだ。むしろ作家が前に出てはならない。そんな音楽は今後AIが自動的に生成してくれることになるだろう。無限に、自動的に、自律的に。それは他の必要にかられて作成される表現文化──例えばニュースサイトの文章、例えばそこに挿入されるイラスト──でも同じことが言えるだろう(もしかしたら、DLsiteのCG集も「必要にかられて作成された表現文化」なのかもしれない)。

しかし(主観にはなるが)それが人類の芸術史において大きな損失だとは思わない。なぜならそのような既存の作家性を失った表現文化を芸術と呼ぶことができるかは限りなく微妙だからだ。確かに、スーパーマーケットでかけられるミューザックをレアグルーヴとして愛好する者はいるが、それは従来価値のない音楽に価値を見出す倒錯性が興味深いということに過ぎない。もちろん、そういったものを製作する職業作家が失職することになるのかもしれないが、それは例えばエネルギー革命によって炭鉱労働者が失職することと大きな違いはない。AIがいくら進展しようと、ベートーヴェンの価値は失われないし、スピッツの価値も失われない。かにかま先生も左に同じ。そして今後も次なるヒットメーカーは現れ続け、「人間による」ブームは去っては訪れ続ける。

それが今のところの見解です。

 

Kroiの音楽の何がすごいのか、完全にわかったので教えてあげます

こんにちは、みなさん音楽聴いてますか?俺はそこそこです。

ところで、みなさんKroiというバンドをご存知ですか?最近すごく注目されているバンドなので、もしかしたらすでに多くの人が彼らの音楽をご存知かもしれませんが、恥ずかしながら、俺は最近になって知りました。
それから俺も時たま聴いては普通にいいなーっと思っていたんですが、先日訪れた野外フェスでのパフォーマンスが本当に良くて、MVのそれと全く同じ出で立ちのメンバー各氏がステージに立つやいなや「やっべえライブしま〜す」との一言、その5秒後、本当にやっべえライブが始まって、本当に度肝を抜かれてしまったので、これを書いています。
ひとまず、Kroiの音楽をまだ聴いていない方はこの機会にどうぞ。


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言ってしまえば「現代の売れ線の邦ロック」なんですが、これがメジャーのシーンにいる日本のロック、結構おもしろくないですか?俺はおもしろいと思ってます。おもしろいと思うし、まだまだ発展の余地があると思う。
ストリーミング配信サービスの普及と音楽の聴取様式の多様化は、例えば10年前の4つ打ちロックのような「コレ!」といえる売れ線のスタイルを提示することが難しくした気がします。それは、邦楽ロックのような閉鎖的なシーンですら共通のことのようで、近年の邦楽ロック系の野外フェスのラインナップを見るとその音楽性の意外なまでの幅広さには驚かされます。
Kroiはそんな拡散した売れ線が交錯するシーンの中でも最も先鋭的かつビビッドな音楽性をメジャーデビュー後もなお維持しています。
もはやミクスチャー的な方法論は邦ロックのみならず日本のポピュラー音楽シーンの中でも当たり前に用いられるものになっていますが(米津玄師とか、星野源とか…より若者向けの音楽に目を向けるなら、Official髭男dismだって、Vaundyだってそうです)、Kroiのミクスチャー先は一貫して黒人音楽のそれです。R&B、ファンク、そしてhiphop────ほかのミクスチャー・ロックを標榜するロックバンドのそれよりずっと高い精度で彼らは黒人音楽のミクスチャーを実行しています。
そもそもロックという音楽が、いかに黒人音楽を内面化するかという課題と取り組んできた音楽といえ、ここまでルーツミュージックへの憧憬を露わにしながら邦楽ロックとして出力する技量はさすがと言えます。Kroiの商業的成功は、その音楽を続ける冒険心と、リスナーの感受性が化学反応を奇跡的に起こした結果です。

そして、彼らの成功には何の因果かコロナ禍が影響したといってもいいかもしれません。このバンドは2020年以降に大きく勢いを伸ばしたバンド、つまりコロナ以後が主な活躍の舞台です。彼らの楽曲はカラオケで歌われることのないままヒットを続けているわけです。日本のポップソングってカラオケで歌われることが前提で作られてきたから(Creepy Nutsのようなラップでさえ、ですよ)、これはちょっと異常なことです。Kroiの曲、あなたはカラオケで歌ったことがありますか?俺は難しくて歌えないと思う。カラオケで歌われることを前提としていない。──というよりむしろ、コロナ以後、カラオケで歌われることがヒット曲の必要条件ではなくなったと言っていいでしょう(たびたび引き合いに出して申し訳ないですが、髭男のコロナ以後の楽曲も非常に複雑な進行をしていて素人は歌いづらいです)。


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たとえばこの曲とか、ループ感の強い構成と24小節のソロ回しパートでかなり変則的なことをしているのですが、そこをいかにもJ-POP的な2段構成のサビでギリギリ曲全体の構造をリスナー把握させることに成功しています。好きなだけ好き勝手やっておきながらギリギリのところで「邦ロック」として成立させている。このバランス感覚はさすが、Kroiの得意技といえるでしょう。

比較的簡素なリフ中心で、8小節のビートが基本的な単位となる音楽の気持ちよさを、あくまで日本のポップスのルールを遵守したかたちで限界まで突き詰めていっている、彼らがそんなことをできるのは、(実はこれが重要な点ですが)シティポップの逆輸入的なリバイバル日本語ラップの流行を経て、日本のリスナーの音楽的素養が彼らの音楽性を受け入れることのできるまでに成長しているからといっていいかもしれません。

更に付け加えるならば、彼らの成功には彼らのスタンスが醸し出す独特のモード感も作用している気もしています。のらりくらりとしていてどことなく真剣でないようなステージングや、「Balmy Life」の「身を粉にしちゃいない」「気負いも感じない」のような歌詞からそのスタンスはよく感じられると思っていて、Kroiはシリアスな現実の課題や、暗い心象を歌にはしません。ただ享楽的に明るい世界があるだけです。
そこには、シティポップのリバイバル現象やVaporwaveの流行との連続性が指摘できます。それらの音楽で歌われるのは現実とは断絶した、うすぼんやりとしていて恍惚な空想の世界です。Kroiの態度はその空気を共有しているように思えます。

本来R&B、ファンクが持っていた黒人音楽特有のマッチョさや、hiphopの持つ現実との連続性をきれいに切り捨てて(もちろん音の面ではめちゃめちゃソリッドですが)、一瞬の享楽だけを音楽に落とし込み、それを全身をもって表現する。この見せ方は明らかに先進的かつ彼らにしかできない所業でしょう。

だってほら、めっちゃオシャレ。オシャレでありつつ、既存の邦ロックや日本のHIPHOPが描いてきたトレンド感とは微妙に隔絶していて、彼らにしかない色彩を放っている。いくらスターダムをのし上がって行ったその先でも彼らの空気感だけは崩してほしくない。
いまの邦ロックの一番面白い部分を担っている彼らに今後も目が離せないような、そんな気がしています。