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(仮題)AIは作家を殺すか?

(俺はバキバキの文系なのでAIに関する技術的な話は一切出てこないです)

AIの発達が凄まじい。

正に日進月歩とはこのことで、先月できなかったことが今月すぐにできるようになっているのだから、来月には俺の想像もつかないようなことができるようになっているのだろう。

例えばイラストを生成するAIならば、ついこの前までは「風景画や抽象的な図柄ならできるけど、いわゆる萌え絵みたいなイラストはむずかしいよね〜」なんて言われていたはずが、今や一説によるとpixivの新規投稿イラストの半数がAIによって生成されたものであるとか、DLsiteのCG集販売数ランキングの殆どがAI産であるとか、あることないこと言われながらとにかく「AIによる萌え絵」はイラスト産業に大きく食い込み始めている。明らかに、一瞬にして。生成のためのキーワードの羅列(所謂「呪文」)の文法さえ習得すれば、誰にだってそれこそ自動的に、萌え絵を生み出し続けることが可能なのだから、それはそうだ。

今や特定のイラストレーターの画風すらほぼ完璧にコピーできるようになりつつあり(この前なんて、かにかま大先生の画風を完璧に模写したAIイラストを見かけた)、「このイラストAI産か手描きか?」なんてクイズが成立するほど精緻であり、去年だったら、いや先月だったら想像もつかないような状況がここにはある。

そうなると問題になるのは当然、(著作権などの問題も内包した)イラストレーターの仕事はAIに奪われるのか?という議題だ。より視点を広げ、近い未来に小説や音楽、映画のようなあらゆる表現文化を人間が手作りしたそれと遜色ないクオリティでAIが生成できるようになったならば、AIはクリエイターを無化するか?AIは作家を殺すか?という議題だ。将来あらゆる仕事がAIに取って代わるようになるといわれているが、その端緒となるのがクリエイター、作家であるというわけだ。

 

結論を急ぐようであるが、その自分なりの答えは「たぶん違う、もしくは部分的にそう」(←アキネイターみたい)だ。少し踏み込むならば、「作家性を求められる分野のクリエイターは生き延び、そうでない領域のクリエイターは殺される」。そりゃそうだと言われればそれまでだが、そうとしか言えない。

では、「作家性を求められる分野」とは何か。音楽を例に取れば、クラシック音楽は常に「誰々の何々」と表象されるように、作家性が極限まで重要視される分野だ。より「正統な」芸術においては誰が作ったか、それが最大の関心事であることはデュシャンの泉が鮮やかに証明している。

若しくは、ロック音楽のような、作曲者と演奏者が同一の「自作自演」の音楽は作家性が重視される傾向が強い。例えばあなたがスピッツのライブに行ったことを話すときに、「スピッツを聞きに行った」とは言うが「ロビンソンを聞きに行った」とは言わない。あなたはスピッツのライブに行くとき、草野マサムネの姿を見に行くのであり、草野マサムネの演奏や歌唱からにじみ出る彼の人間性を目撃しに行くのだ。だから、仮に「スピッツの音楽と聞き分けられないAIの作った音楽」が生み出されたとしても、その音楽がスピッツの食い扶持を減らす脅威になるとは決して思えない。なぜなら私たちはスピッツを聞くときにそのメロディの連なりの先に草野マサムネの幻影を追いかけるからだ。追いかけざるをえない。これはイラストでも小説でも程度は違えど同じことだろう(小説の場合音楽よりも作家性は需要視され、「正統でない」萌え絵のようなイラストの場合は軽視されるのかもしれない)。作家性を取り去った芸術はこの限りにおいて芸術とはいえない。いかにそのクオリティが高くても、芸術にはなることができない。かにかま先生の精密なコピーも、それがかにかま先生が描いたものでないかぎりそこに価値は見出されない。

 

反対に、「作家性が求められない分野」とは何か。例えば、ダンスミュージックがそれだ。ダンスミュージックはフロアにかけられて踊ることが目的の音楽であり、クラブに行く人間はかけられた音楽が、「どのDJによってかけられているか」を重視こそすれ「誰によって作られた」かはさほど気にしないだろう。このように、「目的が先行する音楽」についてはその傾向が強い。ミューザック(所謂BGMのこと)のような音楽はその極北だろう。エレベーターの中、スーパーマーケットやコンビニの店内、テレビ番組やYouTube動画の背景に流されるその音楽は「興味深いのと同じくらい無視できるものでなければならない」(ブライアンイーノ談)からだ。むしろ作家が前に出てはならない。そんな音楽は今後AIが自動的に生成してくれることになるだろう。無限に、自動的に、自律的に。それは他の必要にかられて作成される表現文化──例えばニュースサイトの文章、例えばそこに挿入されるイラスト──でも同じことが言えるだろう(もしかしたら、DLsiteのCG集も「必要にかられて作成された表現文化」なのかもしれない)。

しかし(主観にはなるが)それが人類の芸術史において大きな損失だとは思わない。なぜならそのような既存の作家性を失った表現文化を芸術と呼ぶことができるかは限りなく微妙だからだ。確かに、スーパーマーケットでかけられるミューザックをレアグルーヴとして愛好する者はいるが、それは従来価値のない音楽に価値を見出す倒錯性が興味深いということに過ぎない。もちろん、そういったものを製作する職業作家が失職することになるのかもしれないが、それは例えばエネルギー革命によって炭鉱労働者が失職することと大きな違いはない。AIがいくら進展しようと、ベートーヴェンの価値は失われないし、スピッツの価値も失われない。かにかま先生も左に同じ。そして今後も次なるヒットメーカーは現れ続け、「人間による」ブームは去っては訪れ続ける。

それが今のところの見解です。