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シン・エヴァンゲリオン感想/セカイは終わるけど、世界を続けなければならない。

※この感想は、シン・エヴァンゲリオン公開当日に初視聴を終えたいちエヴァンゲリオン・ファンがパンフレットも他人の批評も一切見ずに衝動書きしたものなので、あまり真に受けないほうがよいです。

 

セカイは終わるけど、世界を続けなければならない。
それが、この映画を観おわって思ったことだった。


シンジとマリが駅を出て、宇部の工業地帯の実写映像が鮮やかに大写しになったとき、俺は明日の朝から始まる労働に思いを馳せざるを得なかった。
この実感から出発して(今になってみるとこの実感は全面的に正解ではないな、とは思うものの)、この映画について少しだけ考えてみたい。
シンジとマリが消えていった街並みや、ゲンドウの心象風景に現れた工業地帯は旧い時代の工業の象徴だ。もちろん、13号機と初号機が刃を交えた特撮のスタジオや、これまでのシンジの記憶に宿った風景や、テレビ版の映像たちも、私達自身のメモリーと相補的に交わり合って旧い記憶として昇華される。
そして、この映画はそういった旧いものを肯定的に描き続けている。
前半部分でとても丁寧に描き続けた第三村の生活は旧い時代のそれで、そこに生きる人々もなぜか旧時代然とした息遣いのもと喜怒哀楽を表明する。
レイがそこで生きることで抱いた感情は、「かつての日本が持っていた暖かな生活」(=『となりのトトロ』の世界)というある種典型のノスタルジイを私たちにも喚起させる。
でもその生活はアンチL結界の中でしか成立しない脆弱なものだし、その世界に馴染み始めたレイも結局LCLになってしまう。
それは、現代が、2021年が『トトロ』の時代では無批判に受け入れられてきたそういったノスタルジイがもはや虚構(=物語世界)の中の虚構という入れ子の中で厳重に保護しなければ成立しないほどに現実感を失ってしまった時代であることを教えてくれる。

ただ、この映画はそこから更に一歩進んだ位置を見据えている。だって、「それって、虚構だよ」という教授だけなら20年以上前にテレビ版最終話で学園エヴァが、さらに遡れば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』でもうやってることなのだから。それこそ、時代遅れな表現の方法でしかない。
だから、この映画は、「ハイハイ、これでこの映画は終わり!明日からは君たちもシンジ君のようにスーツ着て働いてね!」という安易なメッセージを伝えるために作られたのではないのだ!


庵野秀明が描きたかったものは、シンジと、シンジが「次は君の番だよ」と見据えた先にいた私達の第4の壁を隔てたメタ的なコミュニケーションでは決してなく、そういった構造を良しとし、考察を受け入れ、少年と少女がセカイの命運を握る筋書きを手放しで持て囃していた、エヴァ以降のすべてのサブカルチャーの終焉ではないのか!更に言えば、この映画は、庵野が自らの手で生み出した堅固な物語の構造を二時間半をかけて丁寧に丁寧に解体した過程なのではないのか!
この映画は始まりと終わりをそれぞれ別の形の生活を描写しているが、冒頭で描かれた第三村のノスタルジックな生活も、過去の産業たる第二次産業に依存した、全ての登場人物がアニメで表現されていた宇部の街並みも、巧妙に現実であるように見せかけた虚構でしかない!
一方、映画の重要な見せ場としてのエヴァ戦も、異様な情熱をかけて描かれていた艦隊戦すらも、撮影セットと模型によって虚構でしかないことが明確に示されている。
反動推進エンジン=過去の遺物に全てを託したミサトは、そういった過去の物語構造にしがみついて離れないサブカルチャーを取り巻く諸相の総体だ。
もう終わりにしよう、セカイ系も、ロボットプロレスも、はたまたジブリの描いたノスタルジイも、スペースオペラも、全部ぜんぶ。

この二時間半は、サブカルチャーにかかわってきた全ての人々とコンテンツ自体への葬儀に他ならない。

 

では、庵野はシンジに私たち「エヴァンゲリオン・ファン」=「全てのエヴァンゲリオン」に別れを告げさせるだけして、それで終わりなのか。
否、断じて否。庵野は新しい時代を生きる私たちにささやかな指標を提示してくれている(話はやや逸れるが、こういった"メッセージ性"のようなものが物語の中で対決する構造こそ岡田斗司夫の言う思想性なのかな、と思った。それならば、思想性なくして作品は批評の対象なり得ないという岡田の意見も頷けるものだ)。

思い出して欲しい。空想の世界に縋ったゲンドウを途中下車させて、空想と現実を自由に選ぶことのできる主体となったシンジが選んだのは現実だ。虚構の入る余地のない現実、それは、エヴァも、レイも、アスカも、カヲルもいない、はっきり言ってクソつまんない世界だ。
それは、テレビ版や旧劇場版でシンジが選んだセカイの再生とは全く違う。世界の中心でアイを叫んだシンジは再び虚構のセカイに安住することで自らの補完を達成した。そこで庵野は学園エヴァという余りに解り易い旧時代の虚構を提示することでエヴァの世界が現実であるという切符を手にしたが、この映画はそれすらも許してはくれない。残されたのは、マリ=新しい存在とスーツを着た自分だけ。唯一自分を虚構と繋ぎ止めていたDSSチョーカーさえ、マリに簡単に外されてしまう。また、巨大すぎる現実と向き合う日々が始まる。
しかしそれは、悲しい、虚しいことなのだろうか。
エヴァ以後のサブカルチャーを経験した私たちは、テレビ版や旧劇場版のシンジのように、現実に偽装された虚構の中に安住した。そしてその感覚は、インターネットを通じて、サブカルチャーを飛び越え私たちの間に普遍する概念になりつつある(新海誠が大ヒットしたのだって、そういった風潮が人口に膾炙しきった結果だろう)。だってそんなセカイはとてもとても甘美なのだから。
しかし、セカイに目を奪われ世界から目を背け続けた私たちに忍び寄っているのは、巨大すぎる現実感だ。衰退を目の当たりにした社会。蔓延する恐ろしい病気。いつまでも虚構=光に照らされたステージの上だけを見つめているわけにはいかない。
だから、シンジは現実と向き合った。それがどうしようもなくつまらなく見えるものであっても。でも、事実その世界に生きるシンジは幸せそうだった。それを見ている私たちも、楽しかった。宇部の街並みは、美しかった。
その感覚が、もしかしたらとても大切なのではないだろうか。
何かの作品を目にしたり、誰かのSNSアカウントを覗き見たとき、そこには世の中の華々しい部分だけが煌めいていて、そこに私たちの目は奪われがちだが、その実、テレビの人気者も、宇多田ヒカルも、庵野秀明も、俺も、あなたも、その人生の過半を占めているのは日々の生活に他ならない。そして、その日々の生活は、よく知っているように、めちゃくちゃつまらない。掃除も、洗濯も、労働も、ありえないほどつまらない。しかもそれが"死ぬまで"続くのだから、この仕組みを考えた神様は狂っている。でも、全人類にこの生活が与えられているって、それも本当だ。セカイはシン・エヴァンゲリオンをもって終焉を迎え、私たちはそれを看取ったが、一方で世界は続かなければならないし、世界を続けなければならない。この感覚は多分俺が思っているよりもずっと大切で巨大な観念のように思える。そして、そこに光を当て言語化する試みこそが、次の時代の新しい文化の原動力である、この映画はその観念をささやかに提示してくれている、というのは言い過ぎだろうか。
でも、シンジとマリが飛び出した街の風景はあまりに暖かで、それを目にした俺は本当に心から泣けてきてしまって、そう思わざるを得ないのだ。
そんなところです。

3/9追記。

 

繰り返すようであるが、この映画はそういった旧い価値観を肯定的に描くことに終始している。農業をするレイや、反動推進エンジンにすべてを託したミサト、SDATを隠れ蓑にしたゲンドウ、特撮然とした戦闘シーン、『宇宙戦艦ヤマト』ばりの艦隊戦、そして第二次産業に依存した街並み。そういったものはすべて美しく、パンフレットの庵野秀明の言を借りるなら「アニメーション映画の面白さと魅力と心地よさ」を追求した結果である。そして、それを突き詰めた末に愛をもって別れを告げ、新しい芸術の可能性、次の文化の美しさを庵野なりに提示したかったのではないだろうか。やはりそう考えると、この映画が、単に「大人になった私たち」という現実を突きつけるものだと断定してそこで感慨にふけるというのはいささか早計のように思えてならない。もっと、いち時代を気付いた文化の矜持として、次の時代にあたたかな教えを残してくれているもののはずなのだ、この映画は。

それとも、それは、そう思いたいという、大人になれないでいる俺の祈りなのだろうか。