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映画『JOKER』感想/ 弱者による制裁を肯定する風潮

最近、今さらになって映画『ジョーカー』をみた。俺は映画に詳しくないので、映像に込められた様々な含意や、俳優の演技論の如何については述べることはできないけれど、純粋に「この映画が言っていることって、めちゃくちゃすごいんじゃないの?!」と思ったので、今さらですが語りたいと思う、『ジョーカー』を、そして『ジョーカー』が提示した世界と、2020年という時代について。

あと、この映画についての評論を読んだりしたわけじゃないから、恐らく誰かの論と被りまくってます、別に新しい視点を提供したりすることはないので。

 

さて、

『ジョーカー』が描く物語は、めちゃくちゃシンプルだと思う。「あのお馴染みの悪役にこんな悲しい過去が?!」って構造はあらゆるコンテンツでひたすら擦られまくってるし、ワンピースだったら全悪役でやってる。ワンピースよく知らんけど。

その中で『ジョーカー』の何がすごいかというと、それはいくつもあるんだけど、まず第一に、「俺たちだって一歩間違えたらジョーカーになってもおかしくないよな」という実感がものすごい真実味をもって提示されていること。例えばワンピースでドフラミンゴの過去がいくら悲惨に描かれても、ドフラミンゴと自分を重ね合わせることはないんすよ。「かわいそう」と思えど。完全に勘でワンピースの例えしてるのめちゃくちゃ怖いな。どうしよう、ドフラミンゴの過去がめちゃくちゃ共感できるやつだったら。

で、「ジョーカーがジョーカーになる過程」を描くこの映画は、まるでドキュメンタリーを見ているかのように卑近に描かれている。ジョーカーが社会から排斥されていく過程は、完全に一人の社会的弱者のそれでしかない。それは恐らく主演俳優の圧倒的な演技力がなせる業だと思うんだけど、とにかく、娯楽映画としての誇張を可能な限り排除して視聴できるようにつくられている。

すると、俺たちは自分とジョーカーを重ね合わせる。合わせざるをえない。そして、「ジョーカーかわいそう」という感情を超えて、ジョーカーが対峙する社会に対する敵愾心すら抱けるようになる。だから、ジョーカーがゴッサムシティをぶっ壊したとき、俺たちはめちゃくちゃなカタルシスを得ることができるわけだ。

以上は演出上の効果としての話だが、一歩視点を退いて考えれば、この映画は、既存のヒロイズムをまるっきり書き換えてしまうのではないか?と思えてくる。少なくとも、この映画を経て、俺はもう『バットマン』『アイアンマン』のような、社会的強者が経済的・政治的な力を背景に悪(とされるような存在)を制裁する構造の映画を素直にみることはできない。だって、それこそ『バットマン』なら、敵であるジョーカーは明らかに社会的弱者なのだから。

そしてそれは、いまの時代の空気感を如実に反映してるのかもしれない。それが、「弱者による制裁を肯定する風潮」に他ならない。最近の俺たちは、社会的強者を敵視しすぎている。それは、リベラルによる政権批判を超えて、前澤社長が気に入らないのだって、上級国民という言葉だって、全部その風潮だろう。そして、それに立ち向かう人々を祭り上げるのだってそうだ。NHKをぶっ壊したり、コロナは風邪だって言ったりする人々が明らかに躍進しているのも、その延長だし、その流れの尖鋭化の結果が暴徒化したアメリカのデモ隊がスーパーマーケットの入り口をトラクターでぶち壊した瞬間じゃないのか?

さらに言えば、その風潮は、コロナ禍でさらに浸透・強調されていっていないか?ということで、未曾有の巨大な恐怖を前にして失墜した既存権威とかえって伸長する個人主義の中で、ゆきすぎた自己責任論が弱者による強者の私的制裁を許容する社会を作ってしまっていないか?ということを俺は思ってならない。

でも、その風潮って、ものすごくまずい。だってそれは俺たちが何万年もかけて作り上げてきた、「なるべく客観的にみても不都合ない社会」をジョーカーのごとくぶっ壊してしまうものだから。自己責任論と社会福祉という、きわめてセンシティブなバランスの上で成り立ってきたものが、コロナ禍を背景に急速にぶっ壊れつつある。集団として生きる俺たちは、もっと壮大な時代の流れに沿って社会を変えてゆくしかない。急速な変化は我が身を滅ぼすものだ。

待ってくれ。なら、『ジョーカー』は「社会的弱者によるテロリズム」を肯定する映画なんじゃないか?! いや、肯定はさすがに言い過ぎかもしれないけど、少なくとも、この映画が、テロリズムによってカタルシスを与え、涙させるものであることは間違いない。実際、俺は泣いた。

「そんな風潮前からあったじゃん。例えば、石川五右衛門とかの『義賊』のイメージなんて、姿形を変えながら何百年も語られてきた概念だろ」という反論もあるかもしれない。ただ、あえて俺は言いたい。だから何なんだ。封建時代に形成された義賊のイメージが今になって復活し、無視できないレベルにまで敷衍しているならば、それは議論に値するものではないのか。

 

しかし、忘れてはならないのは、『ジョーカー』が大学の尖った映画サークルではなく莫大な資本を背景にしたブランドが制作したという事実だ。これはものすごく皮肉なことで、Kill the Richの映画を作ったのがthe Richそのものだ。俺たちが、社会的弱者による制裁を目撃して得るカタルシスを与える存在は社会的強者だ。舞台装置的に感動を与えられながらも、資本主義のシステムが巨大すぎてそこから抜け出せない、否定できないという重大な誤謬。そこまで自覚的になってこの映画が撮られていたとしたら、かなりヤバい。

この映画、かなりヤバいわ。

 

という感じです。

 

以上でーす。