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『仮面ライダージオウ』最終回。ソウゴもジオウも、間違いなく王様だった

仮面ライダージオウが、そして平成ライダーが、きょうついに最終回を迎えた。

 

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このキービジュアルの何人かのライダーが当初ディケイドライバーを付けていて…なんて騒動も一年前のことだ。そして、オリジナルキャストの出演情報によってざわつく界隈。ディケイドが30話起こした「祭り」を、ジオウは見事に一年間走り続けたと言っていいだろう。改めて、お疲れ様といった感じだ。

最終回「アポカリプス」は展開自体はかなり強引でしたが、結末としては『龍騎』を思い出す着地になりました。流石に裏切り系は食傷気味なので、もっと手札が無いの?とは思いましたが。

ただそのぶんグランドジオウの復活やオーマジオウの戦闘など、演出面は派手で良かった。ダグバやエボルトをワンパンするのは少しヒヤヒヤしましたが、一年間オーマジオウを溜めに溜めてきた不思議なカタルシスが免罪符に。

ディケイドもそうでしたが、最強の座をアニバーサリー作品に置くことで、他作品の魅力を際立たせているような気がします。

 

さあ、『ジオウ』総括です。

 

 

平成ライダーの王

 

 

ジオウはオリジナルキャストに向き合った。

何度も比較してしまうが、リ・イマジネーション(再構築)することで過去のライダーを描いたディケイドと違い、ジオウは一年間で本物に向き合い続けたのである。

 

ビルド・エグゼイドの最近のキャストから始まり、アギトや龍騎といった一期の懐かしい面々、アクアやエターナルのような予想外のライダーに、「架空のオリジナルキャスト」という変化球のミライダーたちまで。

 

そして外せないのが、冬の「平ジェネ」と夏の「OQ」で出た彼らだ。

 

俳優としての格もさることながら、何よりもあの『電王』の主役なのである。

変化球で始まったと思えば、いつのまにか圧倒的熱量を持って完結したあの『電王』。役者がどんどん変わっていったにもかかわらず、続編が作られ続けたあの『電王』。

あえて暴力的な言い方をすれば、『超電王』という偽物(作品の質にかかわらず)が既に出されてしまった作品に対しての、これ以上ない“本物”だった。『平成ジェネレーションFOREVER』は、「あの頃ライダーがいた」という“本物”の記憶を呼び起こすエモーショナルな作品だったのである。

 

 

 

これに限らず、ジオウはオリジナルキャストを出すことで平成ライダーを総括していった。

印象的なのはグランドジオウの初登場シーン。思わず以下のような記事を書いたが、“本物”のリプレイのような演出によって、いかにジオウが平成ライダーを統べる王たるかというのをまざまざと見せつけられた。

 

王の誕生を祝う - 鼻紙diary

 

最終回、久し振りにリプレイをスウォルツにブチ込んでくれたのも最高に爽快でした。あの圧倒的に短い尺の中でまさかの変身音フル!夏休みの宿題が終わってないのに遊ぶような、悪い贅沢をしてる気分。

まあ、もっと「歴史が消える」ということに尺を使えれば映えたんでしょうけど…ないものねだりか…

 

王様とは

 

 

ジオウの面白いところは主人公が「王様」を目指しているところである。

王様。

今の時代、中途半端に歴史を学んだものからすれば、王様とは旧時代の遺物というイメージが強いのではないか。番組当初、私がソウゴに抱いた不審な印象はそれが原因だと考えている。

 

言うまでもなく、民主主義が良い。民主主義についても王政についても研究したわけでもないのに、私は思慮の浅さゆえにこういった思い込みを持っている。

なぜなら、そこには自由の保障があるからだ。民衆の選択が反映される社会に王様は必要ない。なんとなく、そんな気がしてしまう。

 

もちろん、『ジオウ』が王様を目指す主人公を打ち出すからには、「王様」の定義をしっかりしてくるだろうとは思っていた。

たとえば『暗殺教室』が「暗殺」というキャッチーなフレーズをしっかり教育論に結びつけて再定義したように、私は「王様」の再定義を一年間待ちわびていた。

 

それが形になった、と感じたのがのが『OQ』である。

 

遊び心に溢れ過ぎた、歴史に残らない快作『劇場版 仮面ライダージオウ』を観よう - 鼻紙diary

 

世界をぜんぶ良くしたい。みんな幸せでいてほしい。そう思ったら、王様にでもなるしかないじゃないか!

 

これは第1話「キングダム2068」にて、ソウゴが初変身の直前に放った台詞である。世界を良くしたいと言う純粋な願いが最初に提示されている。

 

彼が王様を目指す根源は、弱い人へ手を差し伸べる実にヒーローらしい感情だ。

しかし、それは第一話の時点では不気味ささえ帯びるほど純粋な願い。ソウゴはいずれ「最低最悪の魔王」と呼ばれるという事実が不気味さを物語の要素として加速させる。

 

『OQ』でその不気味さは王の定義として昇華された。『FOREVER』が“本物”を縁取る映画だったとしたら、『OQ』は影に隠れた“偽物”にスポットを当てる映画だったのだ。

佐藤健という本物の客演から一転、まさかのパロディ「仮面ノリダー」の客演から始まり、バラエティのG、舞台の斬月、漫画のクウガと大騒ぎ。

彼らは本物ではない。選ばれなかったと言い換えても良い。しかしそれでも、彼らは人間の自由のために戦う仮面ライダーなのである。

 

映画にて敵を打倒するきっかけは彼らが“溢れ出す”ことだった。枠に収まらない平成ライダーたちを、ジオウは肯定し、受け入れる。

ソウゴの純粋な願いは、平成ライダーという土壌でこれ以上はないという形で実現された。それが『OQ』だ。クオリティに賛否両論があっても、ジオウの映画としてはこれ以外ないものだったといえよう。

 

力あるものから力を継承し、力なきものを救う願いを欠かさぬまま王への道を歩む。同時に平成ライダーの本物と偽物の両方に光を当てることで、ジオウという作品自体がソウゴの歩む覇道とシンクロする。

そう、「王様」とは、力なきものの自由のために力を使うもの。それはそのまま、「仮面ライダー」でもあるのだ。

終盤の展開において、各世界の「王」が「仮面ライダー」だという説明がなされた。平成ライダーを20作品作り、その再定義が「王」だったのだろう。

ジオウはアニバーサリー作品なので、何にせよお祭り要素が必要である。その要件を作品内へ転化するための「王様」というキャッチーなフレーズ。計算高く馬鹿をやると言えばいいのか、平成ライダー20作記念として、そうあるべくして生まれた作品が『ジオウ』だったのである。

 

魔王にならないために

 

魔王という言葉も、王様が再定義されれば再定義される。ジオウではオーマジオウという主人公の未来が魔王として描かれてきた。

ジオウトリニティとオーマジオウの戦いで示されたように、王様と魔王は仲間の有無によって区別できるというふうに描かれている。

 

本編で繰り返し描かれてきたが、魔王になるかもしれなくても、ソウゴは世界を良くしたいという願いを捨てきれない。魔王というと独善的なイメージがするが、自分を信じて進むという点では、ソウゴに魔王の素質は十分にあったといえる。

しかしソウゴは、最終的に魔王の力(オーマフォームまたはオーマジオウ)を手に入れてさえも、魔王にはならなかった。それは、彼にゲイツら仲間が居たからだ。

反対に、ゲイツツクヨミといった仲間を失えば失うほど、ソウゴはオーマジオウに近づいていったといえる。

 

ゲイツリバイブという救世主となり、魔王を打ち破るところまで迫った男。

彼は「ソウゴを抹殺する」から徐々に態度を軟化させ、「ソウゴと一緒に未来を創りたい」、最後には「オーマジオウになれ」と言って事切れる。壮絶なデレである。

ソウゴとゲイツの関係は序盤〜中盤で構築されたものが全てであり、そしてこれこそがジオウがオーマジオウになってもなお魔王にならなかった理由だ。

反対に、最終回の時点では、ソウゴがオーマジオウという究極の力を手にしてさえ、魔王にはならないとゲイツは信じたということである。

 

 

倒す相手と目的が定まっている主人公のような背景を背負っているものの、ゲイツは2号ライダーの総決算と言うべきキャラクターであった。

しかしそれは悪い意味ではない。ゲイツが、ソウゴを魔王にしないという目的を持って動くからこそ、ソウゴは魔王にならない。

言い換えれば、様々な事情で負けることも多い2号ライダーという存在も、決して誰かの脇役ではないということだ。

このゲイツの位置付けも、ジオウという作品の優しさ、王としてあらゆる存在へ手を差し伸べる精神性に表れていると思っている。

 

 

未来のことも他人のことも、いくら考えてもわからないものだ。しかし我々は、それを気にして自分のやりたいことを引っ込めることが多々ある。

「嫌われるかも」「失敗するかも」という気持ちに囚われ、やりたいことができない。ソウゴも、ジクウドライバーを一度捨てている。

ソウゴが再び進む決意をしたのは、ゲイツが止めてくれると言ったからだ。濃厚な少年漫画的“ライバル”の文法こそが、ジオウという作品を成立させていると言ってもいい。ライバルも逸材、である。

 

最終回、というかスウォルツはソウゴと対比して常に「間違った王」として描かれたので、結果的にめちゃくちゃ小物になってましたね。

「意見は求めん」という台詞から分かる通り、彼は間違った自分を正す仲間をそばに置かないので、結局独善的になってしまうと。

 

ソウゴの王様になりたいという目的、ゲイツの魔王にさせないという目的が番組を支える軸となってきた。彼らはやりたいことをやらないのではなく、「やりたいこと」のぶつかり合いの中に答えを探してきた。

 

私の心に強く残る言葉がある。龍騎の終盤で編集長が真司に言った台詞だ。

 

お前だってここんとこにしっかり芯がねえと、話し合いにもなんねえし誰もお前の言うことなんか聞いてくんねえだろ。な?

 

平成ライダーでは「アギト」から複数のライダーが描かれるようになった。ライダーに変身するとき、彼らの中には常に目的がある。そして、時には戦う。

ライダーが複数いる意味とは、誰もが魔王にならないまま王様になることを、独善にならずになりたい自分を目指すためなのかもしれない。

ウォズやツクヨミも「語り部」「キーパーソン」という役割と同時に、仮面ライダーの力を手にした。そもそもソウゴたちが戦ってきたのはアナザーライダーというライダーのなり損ないたちである。

ところでウォズ、語り部というところを活かして最初から最後まで縦横無尽の活躍でとんでもなくいい役どころになりましたね…

最後に一人だけ記憶を残している?のも、語り部としては寂しくも美味しいポジション。

 

閑話休題

オーラの死後、ソウゴがスウォルツに対して啖呵を切るとき

 

お前さ、王には向いてないよ

 

と言った。ソウゴは「民を守る」と「王様になる」という二つの目的のために戦う。

前者は昭和の時代から繰り返し描かれてきたし、後者も平成ライダーが向き合ってきた闘いの再定義だと言えるだろう。

 

余談だが、『クウガ』には仮面ライダーは一人しか登場しない。クウガのあらゆる面での高品質さは、「五代雄介が間違っている」という考えをいかに抱かせないかというところにも作用している。少し作劇のバランスを崩すだけで、グロンギ以外に力を振らない雄介の姿は空々しく見えてしまったことだろう。

 

ソウゴ、そしてジオウ

 

以前、こういう記事を書いた。

 

なぜオタクは伏線回収が好きなのか - 鼻紙diary

 

かいつまんで言うと、「意味がないと思っていたものに意味が生まれるときが一番アツい」という私の好みの話だ。

ジオウはお祭りなら空気を出しながら、実にこの繰り返しだったな、と。

 

『FOREVER』にて虚構に想いを。

『OQ』にて枠外へ光を。

本来生まれるはずの無かったミライダーや白ウォズの存在。

最初は変身できなかったレジェンドキャストの変身。

かつて選ばれなかった加賀美や京介の変身。

バトルファイトの終わり。

何より、ゲイツツクヨミやウォズは本来この時代のものではない。彼らも一種の枠外なんですが、それすらも2019年に取り込んでしまうのが、ソウゴの王の器。そして、ジオウが示す平成ライダーシリーズの器。

 

ソウゴは最後、時空を破壊した。仲間を失ってどこまでもオーマジオウに近付いたが、もはや彼は魔王ではない。今は仲間はいないが、仲間がいたからである。

そしてまた、仲間と共に歩む道を選んだ。ジオウにおいて時間はただただ流れていくものではない。過去が未来へ進むだけでなく、未来が過去に影響を与えてきた。仮面ライダーツクヨミはまさにその象徴です。

 

これは少し外れますが、ソウゴ役の奥野さんの演技は凄く上手になりましたね。深いところも持ちつつ、感情表現が素直だからゲイツやウォズがついていくことに説得力が生まれている。すごいことですよこれは。

最終回、ソウゴが戦う時、一挙手一投足の迫力がすごい。これはオーマジオウになるのも当然、という説得力にもなる。

 

王とは、再提示された仮面ライダーとは、弱きものを守るために、力を束ねるもの。

その願いが魔王へ繋がらないように止めるのがゲイツたち仲間の存在、という仕組みは先ほど説明した通りです。

 

メタという言葉に収まらず、平成ライダーそのものを再構成した作品、それが『仮面ライダージオウ』。

とにかく平成ライダーの20作品ぶんを担保にして突き進んできた。ビルドが科学、ゼロワンが人工知能をテーマにするならば、ジオウは間違いなく「平成ライダー」。

 

顔文字や「なんか違う」演出、魔王というワードでジオウの独自性を打ち出す。特に「なんか違う」演出は大好きで、ジオウのやりたいようにやってやるぜ!な感が溢れ出て印象深い。

また、ジオウとレジェンドのバランスをとる目的か、歴史を奪うという形でこれまでにない客演をやっていたのも記憶に残っています。

 

怪人を倒す路線になることでジオウⅡやゲイツリバイブ、ウォズギンガのシンプルな強さも見栄えが良かった。グランドジオウは戦果は悪いものの、初登場シーンでお釣りがきますね。

 

ソウゴと『ジオウ』という作品は幾度となくシンクロします。

やりたいことをやる「仮面ライダー」自体にも魔王となる可能性があるということです。実際、『OQ』は賛否両論というか、手放しで褒めることはできない作品でした。

しかし、シリーズを締めくくる姿勢としては、これほどまでに自作品に向き合った作品も無いんじゃないかとも思うのです。

果たして制作側のなかにゲイツはいるのか?それはこれから先の「令和ライダー」が見せてくれるのでしょうね。

 

ゲイツ、一家に一台欲しいな…自分でならないとだ。

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俺はvtuber鈴鹿詩子を、詩子さんと呼ぶことにした

俺はこの記事をキモすぎてお蔵入りにしようと思ってたんですが、ゆえあって公開します。

 

こんにちは、みなさんバーチャルYouTuber(以下vtuber)は好きですか?

俺は好きです。

自分はいわゆる箱推しはしてなくて、動画勢を中心に嗜む程度に楽しんでおります(とはいえこういった消費態度のオタクが大半なのでは?自分の周りのオタクが揃って箱推し勢なのが異常だと信じたい。それとも世のvtuber好きたちは1日何時間も配信に釘付けなのが普通なのか?)。

とはいえ一人だけ、いる。配信はできる限りチェックし、ツイートは欠かさずいいねを押し、時にはなけなしの口座から少しの気持ちを投じては夜な夜なひとり満足しているvtuberが。

鈴鹿詩子さん、あなたです。

 

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彼女と出会ったのは去年、にじさんじ二期生がデビューして少し過ぎたあの暑い暑い初夏のことだった。

酷暑の中、壊れたエアコンを恨みつつ開け放たれた窓から入り込む蝉の合唱をBGMにデビュー当時のあなたの配信を聞いて、俺は感銘を受けたのだった。

「こんなのが許されるのかよ……」

確かにはじめは奇をてらった言動、企画に惹かれたのだった。でも彼女には溢れているのだ。どうしようもない、慈愛が(これこそ母性の正体)。愛に枯れた俺というひとりの現代人、気づけば彼女のことばは俺の精神にズブズブと浸透していった。

思うに、彼女はまったくもってウケを狙ってないところが素晴らしいんですよね。最初は自分がなんでこんなにウケてんだ?ってわかってなかったと思うんですよ。それが自分の持ち味だとわかってからも、それをうまくいかして立ち回ってる、そこには絶対彼女の人生経験の豊富さがあと思うんですよね。キャラ設定と魂のキャラのギャップというか、和音?それがもっともうまくいってるキャラの一人が詩子さんだと思います。

 

ブランキージェットシティが好きだと言えば、AmazonでCDを買っては毎日のように再生した。あなたが歌った歌はどんなライブ・キラーチューンよりも俺の心を躍らせる(わがままをいえば、丸の内サのような少し前のJ-POPをもっと歌ってほしいな。それが一番似合っているから)。あなたが勧めてくれたBL本は今でもFANZA(旧DMM)のライブラリに残ったままだ、消すに消せない。あなたに投げていたマシュマロは、自分の中の気持をいたずらに消費するだけだと気づいてから投げなくなりましたが。

俺は詩子さんのことを詩子さんと呼ぶようになった。

最初は、他のファンの人たちが彼女を詩子お姉さんと呼んでいることに対してマウントを取りたかった。

マウントをとりたかったんだよ!!!!!!!!!!!

他のオタクとは違う、俺だけが彼女を俺だけの呼び方で読んでいるんだ。それにしては割りと普通な呼び方だと思ったそこのあなた、中々鋭い。大事なのはそこにある情緒なんですよ、俺にとって詩子さんを詩子さんと呼ぶことが自然だったんですよ。他に理由なんて要らない。たぶんみんな詩子さんのことを詩子お姉さんと呼んでいるだろ?俺は違うんだよ。俺だけは。

 

いつしか、そう具体的には季節がひとまわりした頃、俺は思うようになった。

俺は、この女性(ひと)をずっと前から知っている気がする…………

もちろんそんなのは嘘だ。彼女はこの世界ではないべつの世界に住んでいて、彼女と逢えるのは画面を通してだけ。生きる世界が違うこんな私に あなたは優しくしてくれた(レインボーガール)

 

俺は思った。俺の中にある『遠い記憶の底にある憧れのひと』のイデアが詩子さんなのだと。わかるだろうか?あの、夏休みに祖父母の家に行ったときにしか会えない少し年の離れた親戚のお姉さん。いつも余裕のある微笑みをたたえていて、でもすこし抜けているところがあって、彼女の着ていた真っ白なワンピースはいまだって網膜の奥に焼き付いていて……………………(実在しません)

それが、俺にとっての詩子さんなんだよ!!!!!!

俺は罪深くも『憧れのひと』の様々な深い部分を知ってしまったんだよ!!!わかるか?この罪の重さが!!!もう引き下がれないんだよ、俺は!

中々配信がうまくいかない詩子さんも、ショタに欲情する詩子さんも、ぜんぶがぜんぶ俺の中の善なるイデアを補完する断片なんだよ!!!!参ったか??!!

 

 

 

最後に、さいごに俺が言えることはひとつだ。

 

詩子さん!!!!!!!!結婚してください!!!!!!!!

 


【自作オリジナル曲&MV】Will you marry me? / 鈴鹿詩子 (Utako Suzuka)【後方花嫁面】

 

 

そう言うと彼女は少し困ったように微笑みながら私の頭を小突くのだ。だが私ははじめからそうされるのが解っていたかのように大袈裟に痛がったりする。詩子さんは口許を押さえて笑っている。私はおどけてみせる。まるでひとつ前の言動を取り消すかのように。でも私の気持ちには嘘も偽りもなくて………………

だいぶ込み入った話になってきたのでちょっと早いですがここらで終わらせます。読んでくれてありがとう

 

 

遊び心に溢れ過ぎた、歴史に残らない快作『劇場版 仮面ライダージオウ』を観よう

この映画は、ヤバすぎる。

 

 

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そもそもジオウとは。前半ネタバレ無いです。でも観に行こうとしてる人はフラットに行くのがおススメ。

 

仮面ライダージオウ」は平成20作記念のライダーで、最後の平成ライダー作品である。

平成ライダー”という、落ち着いて考えると偉くトンチキな俗称も、いつしか公式が濫用するようになって久しい。

記念作として走り出した「ジオウ」は、レジェンドライダーの客演や、放送当時へのタイムスリップといった試みをこれでもかとぶつけてきた、まさしく記念作にふさわしい作品だ。

 

平成10作目として放たれた「ディケイド」は、王道というよりは邪道の極みといった作品で、記念作に「ディケイド」を持ってきた蛮勇こそ平成ライダーたる理由だとさえ言える。

常に新しいことに挑戦し続け、記念作で邪道を行く。そうして平成ライダーは第2期へ突入し、拡大する世界観の終わりを告げ、“王道”を突き進むのが「ジオウ」だ。

王の誕生を祝う - 鼻紙diary

 

さてこの映画、はっきりいってとんでもない。

この映画はジオウの映画に留まらない。平成ライダーという特異なコンテンツの、圧倒的なグランドフィナーレだ。

邪道を切り開き、やがていつか王道を突き進んだ、決して平坦ではなかった“平成ライダー”という“魔王の道”の総決算なのである。

 

以下感想。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他ならぬジオウの映画なので、僕も「竹内涼真でも出ね〜かな〜」という僅かな希望を抱き、ネット断ちして(重要。こんなの読んでないで早く行け)映画館へ向かった。

 

 

 

結論を言うと、竹内涼真は出ないし、藤岡弘、も出ないが、仮面ノリダーが出た。

この飛び道具っぷりである。どうやらもうニュースになっているのでそれは知っているという人もいるかもしれないが、知らずに行った時のサプライズは、おそらく秘密のレジェンドキャストが出ていた場合の驚きを凌駕していただろう。

 

このように、この映画は良い意味で無重力だった。

公開されていたあらすじは、クリムの祖先を追って過去に行くと、魔王であるソウゴが魔王・信長に会う…という筋書き。肩の力が抜けた筋に、お祭り感溢れる演出が重なり、観たことはないが「東映まんがまつり」といった趣の映像が繰り広げられる。

 

しかし、この筋書きは介入してきた“クォーツァー”たちが正体を明かすことで怒涛の後半へ突入する。実は楽しい楽しい前半部は後半の壮大な伏線だった。

ここまで割り切った構成は仮面ライダーの映画では珍しい。似たようなメタフィクショナルな作品「平成ジェネレーションズ FOREVER」は、真っ向からメタな材料に立ち向かった作品だった。

 

冒頭に「ゼロワン」の登場を持ってくるのもニクい。とんでもないメタ発言を平然とかます登場人物を観て、「ああ、今回はこんな感じなんだな」と思わされてしまう。

奇しくも、同時上映の「リュウソウジャー」もタイムスリップを扱い、シリアスな(しかしどこかアバンギャルドな)展開を見せていただけあって、ジオウの前半はどこか「ちょうどいい」のである。

 

しかし、歴史は未来の人から見たものに過ぎず、その過去には現在を生きる人がいる、というジオウ全体を総括するようなメッセージがやがて時代という射程へ広がっていく。

 

真の最終回、という平成ライダーにとっては馴染みのある文言にふさわしく、ソウゴやクォーツァーの正体が明かされる。彼は「醜い平成を作り直そうとするクォーツァーのボス」常盤SOUGOの替え玉だと言う。信長とゲイツの替え玉の下りはそのまま伏線だったのだ。何度も言うが、こういう伏線らしい伏線はとても珍しい。

 

囚われたソウゴへ放ったウォズの言葉は、メタで笑いを取った前半に対応し、メタだからこそ重い、「FOREVER」のような響きが出る。平成ライダーを統べる魔王というアイデンティティが、まさにメタで一笑に付される虚構だったのである。

 

 

そこで出会うのが仮面ノリダーである。一言で言えば、そして自分が知っている唯一の知識と言えば、彼は仮面ライダーのパロディに過ぎない存在だということだ。

しかし、彼の言葉には不思議な重み、いや、軽さがある。模倣でしかない彼がソウゴにかけた言葉だからこそ、あそこまでソウゴを再起させることができた。

あそこでレジェンドライダーが出てきて言葉をかけても、果たしてそれは正しかったのだろうか。それでは、平成ライダーとして一纏めにし力を奪ったクォーツァーへの対抗にならないだろう。通常の枠の外にいる彼だからこそ、同じく枠から弾き出されたソウゴを励ますことができたのだ。

 

最初に触れたとおり、「平成ライダー」とは俗称であった。平成に放送していたライダーはBLACK RXのようにいるのに、クウガからのライダーをだれかが呼んだのが始まりで、これこそ信長が魔王と呼ばれるような歴史の一側面でしかない。

 

クォーツァーの変身するライダーはみなRXのような枠から外れたものたちの力を用いている。

しかし、“平成ライダー”という立場はテレビで放送されたライダーたちが独占している。その反逆なのだな、と最初の時点では思ったものである。

 

事態は予想をはるかに超える。平成ライダー最後のお祭りは、そんな湿っぽく終わりはしない。ノリダーから勇気をもらったソウゴを助けるのは、“平成ライダー”という枠から外れていた者たちだ。

 

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仮面ライダーGが出た時、はっきりと不思議な感情が湧いた。SMAPの特番で生み出された、稲垣吾郎の変身する仮面ライダーGなんて、誰が再登場するだなんて考えられるだろうか?しかし、それでも、彼は平成ライダーと胸を張るべきだ。

 

同じように、枠外の者たちが次々と現れる。

 

“舞台”で生まれた斬月カチドキアームズ。

“ビデオパス”で生まれたゴライダー。

“TTFC”で生まれた令和初の平成ライダー・ブレン。

“漫画”で再構成されたクウガ

 

漫画のコマを切り貼りした、真面目に大ふざけしている戦闘シーンは今後どの作品でも見られないだろうし、ぶっちゃけ二度目は見たくもない。しかし、一度くらいならこれもまた良い。一周回って、この映画は“平成最後のお祭り”に行き着くのだ。

 

いつの時代も平坦ではないが、泥臭く生きている人々が時代を作る。そのメッセージと共に、平成ライダーの歩んだ道も、平坦な“王道”では無かったが、平成の時を戦ったライダーが歩んだ道こそが、“魔”王の道であっても平成ライダーに違いないのである。

 

この作品を完成度という点で観ることは出来ない。もはや単体では評価しようが無いし、それを抜いても整合性などを投げ捨てている。

 

平成ライダーにおいて整合性が取れない部分などはいくらでもあったが、それらは「取ろうとして取れなかった」ものであって、「取らなくてもいい」と大々的に表現したものでは無い。それは、この映画が平成ライダーの中で一番罪深いところである。最後のお祭りに託けて、とんでもないことをしでかしているのだ。

 

結局のところ、今後仮面ライダーの可能性を広げていくことの製作者の宣誓なのかもしれない。もがきつづけた“平成ライダー”を終わらせ、令和もまた一瞬を全力でやり続けていく意思表示。

それは無責任との瀬戸際にある。今後も平坦で綺麗な道は通らないかもしれないが、それでも頑張るつもりです、という。

令和の仮面ライダーが続いていくとき、「ジオウのアレがあって良かった」となれば幸いだ。そうでない場合は…語るべくもないだろう。

 

映画のラストは笑撃、の二文字が相応しい。滑稽でもあるし、趣深くもあるが、こればっかりは劇場で「今この時」観なければわからない。

最後に流れるDA PUMPの「PARTY」が不思議と胸に快適に響く。そして臆面もなく発表される令和ジェネレーション。道はこれまでもこれからも続いていく。

 

余談だが、試験を終わらせて観に行った。夏休み前にとんでもない遊び心をぶつけられる無意義な映画を観てしまった。胸がすく気分だ。この映画の価値は今後の歴史が決めていくだろうし、陳腐ではあるが、良い夏休みをこれから歩んでいきたいものである。よしなに。

 

0から1へーー仮面の歴史

とうとう公式発表されました。令和初のTVライダー、ゼロワン。

 

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情報がまだまだなので内容はなんとも言えませんが……今回のゼロワンは仮面に「仮面らしさ」が感じられますね。お面っぽくないですか?これ。

 

特撮だからもちろんスーツなのですが、仮面って異形の存在を表現(そして隠蔽)する手段だった。本来のイメージはきっと真とかの方が近いはず、と勝手に思ってますけど。

 

 

真・仮面ライダー序章
 

 



 

ライダーマンが微妙な立ち位置にいたのは、人間の部分が露出していることが決定的に違うからですかね。あれこそ第一印象は「マスク」なのに、そこに違和感を感じてしまうパラドクス。

 

 

仮面ライダー レジェンドライダーシリーズ16 ライダーマン

仮面ライダー レジェンドライダーシリーズ16 ライダーマン

 

 

 

仮面ライダーの仮面には「涙ライン」なるものが存在していて、これは異形となってしまった悲しみが表されている、というそこそこ有名なトリビアもあります。

 

 

第1話「怪奇蜘蛛男」

第1話「怪奇蜘蛛男」

 

 



 

涙ラインは「フォーゼ」で無くなったりもして、いよいよ仮面と分けられないという悲しみが枠から外れていった。仮面が変身者と明確に分けられるようになった。

今までは仮面と人は不可分だったけど、平成の龍騎ファイズあたりから変身者とライダーは意識して分けられるようになりましたね。こっちの方が本来の「仮面」に近いのかも。誰でも「ファイズドライバー」を使えば「ファイズ」になれるっていう。

 

 

 

さっきから色々貼り付けてるけど、改めて特撮の仮面ライダーというシリーズがおもちゃから離れることはないって前提の確認になりますね。

おもちゃから離れることはないから、その枠の中で色んな試みが生まれる。子どもにおもちゃを買ってもらうには、「ベルト」と「変身者」は分ける、仮面の仮面化が進むわけです。

 

平成の総決算を真っ向から成さんとするジオウの後にやってくるゼロワンは、まさに新時代の幕開け。当初から居る女性ライダーは昨今の潮流を汲んだ新しい流れの象徴ですね。専門家を呼んでAIを扱う即時性たるや。数式監修を呼んだ大森Pらしさなんでしょうか。

スタッフの布陣もすごい。エグゼイドのプロデューサー&脚本に、BGMはゴーストの坂部さんとは。ゴーストの闘魂のBGMはマジで良いので観たことない人も是非というレベル。

 

 

女性ライダーもそうですが、「仮面」が仮面であるためには、どんな人も被れるものである必要がある。じゃあこの力は何のために存在するのか?仮面をかぶることで力が出る、その力は目的を果たすためのもの。

ゼロワンの主人公は「世界最強の社長」を目指すため。ジオウは「最高最善の魔王」になるため。エトセトラ。

 

設定的には似た雰囲気を醸し出す「ファイズ」では、目的をはっきりとさせずに群像劇を描いた。むしろ、主人公が目的を見つけるまでの物語だったと締めくくっても良い。

けど、新時代のゼロワンではきっとそれは目指されない。僕が新しさをひしひしと感じるのは、目的があってそれを成し遂げるために仮面が被られるということ。ゼロワンの仮面のお面らしさもそんな意味があるんじゃないか、とか。

とにかく楽しみです。

PK shampooを聴いてくれ、俺の他のどんなたわごとも無視してくれていいから

こんにちは、皆さん音楽聴いてますか?俺は聴いてます。

この文章で俺が言いたいのはタイトルにある通りです。

あの、このバンド絶対に売れるんで今のうちに知っといた方がいいですよ。損はしません。

 


【MV】京都線/PK shampoo 

 

おわり 

 

 

今週のお題「わたしの好きな歌」

 

 

 

 

 

 

以下駄文

 

こんにちは。皆さん一生忘れることのないような音楽に出逢えましたか?俺は出逢えました。PK shampooです。

インターネットの片隅にある13人くらいしか常駐してない終わった掲示板で、俺はPK shampooを知った。

13人の住人が永久にPK shampooとかいう知らんバンドの話してて、ヤバい奴らいるな……と思いながら流石に気になってSpotifyにあるシングル(星/京都線)を再生し、一発でファンになった。やっぱりヤマトパンクス(vo.)って神だわ。

数日後ウキウキでその掲示板にPK shampooの話しにいったら、「ヤマトパンクスの話するな」ってめちゃくちゃ怒られた。あれは何だったの、ほんとうに。

本人たちがfrom World Wide Webを掲げてる以上、このワケわからん出会いはある意味正解だったのかもしれない。

とくに俺が気に入った曲は、ヤマトパンクス(以下ヤマパン)がソロ名義で出している夜間通用口という曲で、たぶんここ一月で50回は再生した気がする(こんなにヘビロテした曲はC.O.T.D以来かもしれない)。この曲も普通にライブでやってくれて、まさかやってくれるとは思わなかったから一曲目だったんだけど号泣してしまった。

 

 

ここ最近はほんとうにPK shampooばかり再生していた。ep買ってそれを外で聴くためだけにWALKMANヤフオクで落としたりして、一日中ヤマパンの声を聴いてた。やっぱりヤマトパンクスって神だわ。

アルバムが再生し終わったらはじめから再生し直した。風呂では彼らの歌を口ずさんだ。ライブに行くことを考えたらくそみてえな生活もすこしはマシに思えた。神だわ。

正直言って彼らの音だけを抜き取ってみれば、それは売れ線から第二宇宙速度で遠ざかっている音楽だ。何重にも何重にも重ねられたギターで紡ぐ旋律はノイズミュージックのようだし、代表曲はどれもローテンポだ、しかもボーカルは絶叫する。

(上の要素は正直好き嫌いある要素だ、俺は大好きだけど)それを「万人受けする」という意味でのポップさを感じられるまで昇華させているのは、圧倒的なまでの詩とメロディの良さだ。50年前のプログレとか、それこそビートルズ、もっといえばヴェートーヴェンの音楽が今なおめちゃくちゃ人気があるのはそのメロディの良さがあるからで、メロディの良さってのは時代も国も完全に越える、と思う。そういう次元でヤマパンの作るメロディは良い、ほんとうに、天才だ。

それと、彼の詩はまさしく文芸で、俺は小説を書いていて、偶然にも彼らの曲と同じテーマで小説を書いたことがあって、俺はヤマパンと同じ景色を見ているのに、その語られる言葉の透明さがまるで違うと思った。断片的に綴らざるを得ない歌詞なのに、その言葉のひとつひとつが限りなく透明に近いブルーのガラス片となってグサグサと。グサグサと突き刺さるのだ。本当の言葉がそこにあって、彼は「本当の言葉」だけで歌詞を綴れていると思った。

 


【MV】神崎川/PK shampoo

 

(本当の言葉とかコイツなに言ってんの?のと思った方はこちらをどうぞ) 

 

音像を丁寧になぞれば彼らが90年代のグランジシューゲイザー、ポストパンクの影響下にあるような気がしなくもない(全く違ってたらごめんなさい)。もちろん、メロディセンスとコード感は彼の天才的なセンスによるものに違いないが。このざらついたノイジーな演奏に泣かせるメロディを乗せる手法は峯田和伸という先行者がいるのだけれど、PK shampooはよりローテンポでメロディや歌詞を強調されていてパンク色は薄い、要するにPOPSだ(POPS最先端と自称するだけのことはある)。実際彼らの音楽と全く同じことをしている先駆者は、少なくとも邦楽ロックの表舞台に出てきたバンドではゼロだと思う。ヤマパンのブログで少し彼の音楽観を知ることがあったが、まさしくfromWWWだった。彼のルーツは彼が触れてきた2000年代のインターネットそのものだと思った。インターネットに彼の感性でフィルタリングして出力された音楽が、PK shampooだ。

まあ俺がここでうだうだ語ってることは既に某地下室で半年以上前に述べられているんだが。無為だ。

先日彼らのライブに足を運んだ。彼らのパフォーマンスは「異常」だった。SNSなどから彼らのかなりふざけ倒したスタンスは知っていたつもりだったが、

 

 

まさか登場曲が赤緑のOPだとは思わなかった、ステージドリンクはワインだったし。それで演る音楽が破壊的にセンチメンタルな曲ばかりなんだから笑う、いや泣く。正直彼らのルックスとパフォーマンスだけだったら超難解なインダストリアルバンド辺りと誤解されそうだ(彼らはインダストリアルの要素をも取り込んでいるんだけども)。

 

上の画像、最初に貼った動画の曲やってるんだけど、バラードでダイブがおこるのを初めて見たよ、俺は。

 

 

そんな彼らは今月シングルを出した。ついにこのシングルはタワレコにも並ぶらしい。PK shampoo、遂に表舞台に出てきたな。メルカリで二万で売られる前に買っておいた方がいい、マジで。ライブも行っとけ、触れる近さにいるうちに。あっという間に遠くに行ってしまいそうだから。

 

↓この記事読んだら絶対に買え

 

 

おわり