鼻紙diary

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王の誕生を祝う

 

ついにグランドジオウが誕生しました。そうです、仮面ライダーの話です。

 

10周年ではディケイドという仮面ライダーがいたんです。ヒーローの全員集合ものに「リ・イマジネーション」という概念を引っさげることで、10周年という年月に対して二次創作というか再解釈というか……とにかく極限に「虚構」で回答をしてきたわけです。

 

これはやっぱり良くも悪くも画期的なことだった。シリーズ物の記念作としてその年月へアンサーするなら、やっぱり「本物」であるべきじゃないですか。ファンへの感謝、時間の重みの再確認。ウルトラマンメビウスゴーカイジャーはよく比べられますが、まあそういう良さがあるわけです。

 

しかしディケイドはどーにもひねくれていて(そこに実は平成仮面ライダーイズムがあるのでややこしいんですが)そう単純にしなかった。

 

偽物だらけの世界を旅する偽物の仮面ライダーディケイド。彼が立ち向かうのは自分が全てを破壊するという運命そのものなわけです。自身の運命に抗う、というのはそれこそ平成初期のライダーに流れていた理念なのですが、ディケイドはシリーズの「後継者」ではなく「破壊者」として対置された。抗う対象が10年間の「本物」だったのです。こうして書いてみるとやっぱりかわいそうにすら感じる……

 

ディケイドはどこにも「本物」を持てず、唯一持てたのは世界を旅するということだけ。生きること、戦うことを続けていくことを決意して次の10年間を旅しに行った。

 

そこから10作品。

 

ディケイドはちょくちょく顔を出しに来て、その生き様こそ彼がライダーである所以だということをまざまざと見せつけてくるわけですが、現在はもう一つの記念作、ジオウが放映されていて。

 

これは平成ライダーが平成最後にかけて打ち出した「本物」なのです。

 

段階的にオリジナルキャスト、BGM、変身、ストーリーが解禁されていき、その展開がジオウが王となる物語とシンクロする。制作の都合が垣間見得つつも、そこには10作品前には無かった本物が氾濫しているわけです。

 

そして段階的な解禁というのも実情を反映しており、平成後期のライダーはどんどん本物の価値が上がってきた軌跡そのもの。一度ディケイドで偽物へ振り切ったからこそ、否が応でも感じてしまう本物の価値と、それに抗ったディケイドたち偽物の尊さ。それが爆発したのが平成ジェネレーションズだった。久しく出ていなかった本物たちがついに平成ライダーへ凱旋する、その感慨を映画として打ち出すまでとなったのです。

 

ジオウの最強形態グランドジオウの能力は、身体のレリーフをタッチすることで、対応する仮面ライダーの過去の場面を自在に再生できるというもの。過去のライダーキックを一斉に呼び出して総攻撃するのも、武器だけを呼び出して自分で使うのも思うがまま。まさにジオウが「魔王」と呼ばれる証左ともいうべき強大な力。エグゼイドにムテキが出た時と同じような、乾いた笑いがこぼれてしまう。いや、強すぎだろ

 

ジオウはディケイドと対照的に、本物を引っさげてきた。ディケイドが年月と対峙したのなら、ジオウは年月を従えて戦う。そして戦う相手は自分自身で、それこそ運命に抗うというプロットなのですが、これ以上はまだ未来の話。

 

本物の奔流を敵にぶつけ、蹂躙するグランドジオウの誕生は、ディケイドという中継地点を抱える平成ライダーの終わりに相応しいものだ。実際に20作をリアルタイムでは観ていない僕でも、その感慨はひとしおである。これはアベンジャーズ最終作だったり、タロウの息子だったりとはまた別の、ライダーにしかない重みに違いない。感謝。