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遊び心に溢れ過ぎた、歴史に残らない快作『劇場版 仮面ライダージオウ』を観よう

この映画は、ヤバすぎる。

 

 

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そもそもジオウとは。前半ネタバレ無いです。でも観に行こうとしてる人はフラットに行くのがおススメ。

 

仮面ライダージオウ」は平成20作記念のライダーで、最後の平成ライダー作品である。

平成ライダー”という、落ち着いて考えると偉くトンチキな俗称も、いつしか公式が濫用するようになって久しい。

記念作として走り出した「ジオウ」は、レジェンドライダーの客演や、放送当時へのタイムスリップといった試みをこれでもかとぶつけてきた、まさしく記念作にふさわしい作品だ。

 

平成10作目として放たれた「ディケイド」は、王道というよりは邪道の極みといった作品で、記念作に「ディケイド」を持ってきた蛮勇こそ平成ライダーたる理由だとさえ言える。

常に新しいことに挑戦し続け、記念作で邪道を行く。そうして平成ライダーは第2期へ突入し、拡大する世界観の終わりを告げ、“王道”を突き進むのが「ジオウ」だ。

王の誕生を祝う - 鼻紙diary

 

さてこの映画、はっきりいってとんでもない。

この映画はジオウの映画に留まらない。平成ライダーという特異なコンテンツの、圧倒的なグランドフィナーレだ。

邪道を切り開き、やがていつか王道を突き進んだ、決して平坦ではなかった“平成ライダー”という“魔王の道”の総決算なのである。

 

以下感想。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他ならぬジオウの映画なので、僕も「竹内涼真でも出ね〜かな〜」という僅かな希望を抱き、ネット断ちして(重要。こんなの読んでないで早く行け)映画館へ向かった。

 

 

 

結論を言うと、竹内涼真は出ないし、藤岡弘、も出ないが、仮面ノリダーが出た。

この飛び道具っぷりである。どうやらもうニュースになっているのでそれは知っているという人もいるかもしれないが、知らずに行った時のサプライズは、おそらく秘密のレジェンドキャストが出ていた場合の驚きを凌駕していただろう。

 

このように、この映画は良い意味で無重力だった。

公開されていたあらすじは、クリムの祖先を追って過去に行くと、魔王であるソウゴが魔王・信長に会う…という筋書き。肩の力が抜けた筋に、お祭り感溢れる演出が重なり、観たことはないが「東映まんがまつり」といった趣の映像が繰り広げられる。

 

しかし、この筋書きは介入してきた“クォーツァー”たちが正体を明かすことで怒涛の後半へ突入する。実は楽しい楽しい前半部は後半の壮大な伏線だった。

ここまで割り切った構成は仮面ライダーの映画では珍しい。似たようなメタフィクショナルな作品「平成ジェネレーションズ FOREVER」は、真っ向からメタな材料に立ち向かった作品だった。

 

冒頭に「ゼロワン」の登場を持ってくるのもニクい。とんでもないメタ発言を平然とかます登場人物を観て、「ああ、今回はこんな感じなんだな」と思わされてしまう。

奇しくも、同時上映の「リュウソウジャー」もタイムスリップを扱い、シリアスな(しかしどこかアバンギャルドな)展開を見せていただけあって、ジオウの前半はどこか「ちょうどいい」のである。

 

しかし、歴史は未来の人から見たものに過ぎず、その過去には現在を生きる人がいる、というジオウ全体を総括するようなメッセージがやがて時代という射程へ広がっていく。

 

真の最終回、という平成ライダーにとっては馴染みのある文言にふさわしく、ソウゴやクォーツァーの正体が明かされる。彼は「醜い平成を作り直そうとするクォーツァーのボス」常盤SOUGOの替え玉だと言う。信長とゲイツの替え玉の下りはそのまま伏線だったのだ。何度も言うが、こういう伏線らしい伏線はとても珍しい。

 

囚われたソウゴへ放ったウォズの言葉は、メタで笑いを取った前半に対応し、メタだからこそ重い、「FOREVER」のような響きが出る。平成ライダーを統べる魔王というアイデンティティが、まさにメタで一笑に付される虚構だったのである。

 

 

そこで出会うのが仮面ノリダーである。一言で言えば、そして自分が知っている唯一の知識と言えば、彼は仮面ライダーのパロディに過ぎない存在だということだ。

しかし、彼の言葉には不思議な重み、いや、軽さがある。模倣でしかない彼がソウゴにかけた言葉だからこそ、あそこまでソウゴを再起させることができた。

あそこでレジェンドライダーが出てきて言葉をかけても、果たしてそれは正しかったのだろうか。それでは、平成ライダーとして一纏めにし力を奪ったクォーツァーへの対抗にならないだろう。通常の枠の外にいる彼だからこそ、同じく枠から弾き出されたソウゴを励ますことができたのだ。

 

最初に触れたとおり、「平成ライダー」とは俗称であった。平成に放送していたライダーはBLACK RXのようにいるのに、クウガからのライダーをだれかが呼んだのが始まりで、これこそ信長が魔王と呼ばれるような歴史の一側面でしかない。

 

クォーツァーの変身するライダーはみなRXのような枠から外れたものたちの力を用いている。

しかし、“平成ライダー”という立場はテレビで放送されたライダーたちが独占している。その反逆なのだな、と最初の時点では思ったものである。

 

事態は予想をはるかに超える。平成ライダー最後のお祭りは、そんな湿っぽく終わりはしない。ノリダーから勇気をもらったソウゴを助けるのは、“平成ライダー”という枠から外れていた者たちだ。

 

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仮面ライダーGが出た時、はっきりと不思議な感情が湧いた。SMAPの特番で生み出された、稲垣吾郎の変身する仮面ライダーGなんて、誰が再登場するだなんて考えられるだろうか?しかし、それでも、彼は平成ライダーと胸を張るべきだ。

 

同じように、枠外の者たちが次々と現れる。

 

“舞台”で生まれた斬月カチドキアームズ。

“ビデオパス”で生まれたゴライダー。

“TTFC”で生まれた令和初の平成ライダー・ブレン。

“漫画”で再構成されたクウガ

 

漫画のコマを切り貼りした、真面目に大ふざけしている戦闘シーンは今後どの作品でも見られないだろうし、ぶっちゃけ二度目は見たくもない。しかし、一度くらいならこれもまた良い。一周回って、この映画は“平成最後のお祭り”に行き着くのだ。

 

いつの時代も平坦ではないが、泥臭く生きている人々が時代を作る。そのメッセージと共に、平成ライダーの歩んだ道も、平坦な“王道”では無かったが、平成の時を戦ったライダーが歩んだ道こそが、“魔”王の道であっても平成ライダーに違いないのである。

 

この作品を完成度という点で観ることは出来ない。もはや単体では評価しようが無いし、それを抜いても整合性などを投げ捨てている。

 

平成ライダーにおいて整合性が取れない部分などはいくらでもあったが、それらは「取ろうとして取れなかった」ものであって、「取らなくてもいい」と大々的に表現したものでは無い。それは、この映画が平成ライダーの中で一番罪深いところである。最後のお祭りに託けて、とんでもないことをしでかしているのだ。

 

結局のところ、今後仮面ライダーの可能性を広げていくことの製作者の宣誓なのかもしれない。もがきつづけた“平成ライダー”を終わらせ、令和もまた一瞬を全力でやり続けていく意思表示。

それは無責任との瀬戸際にある。今後も平坦で綺麗な道は通らないかもしれないが、それでも頑張るつもりです、という。

令和の仮面ライダーが続いていくとき、「ジオウのアレがあって良かった」となれば幸いだ。そうでない場合は…語るべくもないだろう。

 

映画のラストは笑撃、の二文字が相応しい。滑稽でもあるし、趣深くもあるが、こればっかりは劇場で「今この時」観なければわからない。

最後に流れるDA PUMPの「PARTY」が不思議と胸に快適に響く。そして臆面もなく発表される令和ジェネレーション。道はこれまでもこれからも続いていく。

 

余談だが、試験を終わらせて観に行った。夏休み前にとんでもない遊び心をぶつけられる無意義な映画を観てしまった。胸がすく気分だ。この映画の価値は今後の歴史が決めていくだろうし、陳腐ではあるが、良い夏休みをこれから歩んでいきたいものである。よしなに。