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【今更】2018年ベストアルバム3選~邦楽編~

こんにちは、皆さん音楽聴いてますか?

俺は聴いてます。

2018年に発売されたアルバムで俺が聴いてよかったと思ったやつをちょっとだけ紹介します。順位とかはなくて、順不同です。年も明けてひと月も経っておいて何を今更、と思ったそこの貴方、堕落した大学生の行動の遅さをナメてはいけない。うかうかしてる間に時間だけが過ぎた。

洋楽編を書くつもりはありません、洋楽はプログレテクノポップしか聴かないので。

 

1.小袋成彬『分離派の夏』

分離派の夏

分離派の夏

 

難解なアルバムかもしれない。ただそのことは問題でなくて、たとえば「Selfish」に郷愁を感じたり、「Game」に官能的な切なさを感じたりできればそれは音楽体験として成功なのではないだろうか。逆説的に言えば、このアルバムの難解さは、曲単位では容易く再現されすぎてしまう各々の情景に一定のノイズを挿入することである種のグルーヴを生み出しているのではとさえ思える。音像をたどれば、削ぎ落とされた音数と美しい日本語の韻が先端の潮流を掴んでいるように思える一方で、各所に見られるクラシック的な素養と川端康成の引用に代表される純文学然として憚らない詞は彼独自のもので、産み落とされたPopは確実にPopのその先を提示しているように思えた。最早、彼女の名前を出す必要はないのではないか。「言葉は真実を映さない」のだから。

 

2.teto『手』

手

 

例えば、銀杏BOYZと同じ時代に青春を過ごしたかった。例えば、ブルーハーツと。例えば、フジファブリックと。例えば、andymoriと。妄想は尽きないが、俺の青春、このモラトリアムに寄り添ってくれるのはこのtetoというバンドらしい。小池貞利(Vo.&Gt.)という男は、どうしてここまでに、情けない大学生の男の情けない心を抉るような詞を綴ることができるのだろう。いつの時代でもこんな音楽(青春パンクと形容するのは簡単だが、その実像は刻々と移り変わるものである)は要請されていて、それに応えられるギター・ヒーローは必ずやって来るのである。2018年、PopとRockの境目がどんどん曖昧になっていく今でも、泥臭いサビを絶叫する小池貞利はそこに証を刻むのである。10年後の高校生、大学生がtetoを聴いて彼らと青春を過ごしたかったと思ってくれるような、そんなバンドが彼らで、『手』はそんなアルバムだと思った。これを書きながら「忘れた」を再生したらボロボロ泣いてしまった。

 

 

3.tofubeats『RUN』

RUN

RUN

 

先ほども書いたが、2018年、RockがPopに最も接近した一年であった。2017年の紅白歌合戦にはWANIMAが出演して所謂歌モノを披露し、翌2018年はSuchmosが臭くて汚いライブハウスからシティ・ポップを歌い上げたことからも潮流は見てとれるだろう。その流れ、つまりロックバンドはAメロににわか仕込みのラップを援用し、著名なラッパーはロックバンドのリードトラックにフューチャリングされる流れの中で否が応でも表舞台に出現せざる得なかったのが、RockとPopという天秤の上で揺れ動き続けたtofubeatsであった。音楽オタクのいわば「味方」として内向的作品を発表していた彼が颯爽と登場し成功を勝ち取っていったという事実に多少の妬み嫉みを覚えつつも、彼の 「聴かせつつ踊らせ

るエレクトロ・アンセム」を軽々と量産できるセンスには敬服せざるを得ない。アルバム中盤のインストの連続は彼なりの邦楽シーンへの挑戦であるのだろうか。俺はそれに受けて立ち、気付いたら寒々としたワンルームで踊り狂ってしまった。「RUN」から「ふめつのこころ(SLOWDOWN)」に至るまで、Rockの文脈から見ても、Popの文脈からみても、エナジーに溢れた邦楽の現状がまざまざと浮き彫りになっていた。Rockは死んだか。tofubeatsを聴く限り、どうもそうではないような気がする。「自分が生きている場所がニュータウンである」と彼は語る。まさにオルタナティブの文脈における「たまたまニュータウン」ではないか。そんな偶然に失笑していたら(それこそまさにオルタナサブカルといった檻に収監されている俺を置き去りにして)、うかうかしてる間に時間だけが過ぎてしまった。俺が未だにこんなところで足踏みして、30年前のテクノポップを聴いている間に、tofubeatsはどんどんと先へ進んでしまう。

 

大分、酔いが回ってきてしまった。今日はここで終わりにしておこう。ちなみに、今の時点で2019年のベストアルバムを選ぶとしたら、フジファブリック『F』は必ずや選出される完成度である。