鼻紙diary

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祭囃子を恨む

午前11時、祭囃子が聴こえて目を覚ます。ああ、きょうは桜祭りだったなあ。3月の終わりの桜祭り、少し早いだろう。きのう整体師のオッサンが言っていたのを思い出した。きょうは雨だというのに外はあまりにも喧騒が騒がしい、祭囃子に遺伝子的に刻み込まれた高揚を一瞬でかきけす嫌悪感。あまりにも騒がしい。

俺の住んでるアパートはアーケードつきの商店街のど真ん中にある、開け放しの窓(昨晩はおどろくほどに暖かった)からいつもより遥かに多い人通りを窓から眺めるが、あまりの五月蝿さに辟易し窓をぴしゃりと閉じる。閉じるもなお五月蝿い。うるさい。

折角の二連休で、きょうは暗くなるまで寝て、朝までやってるファミレスで死ぬほど溜まってる書籍(積ん読)を読もうと思ってたのになあ。中断された睡眠ほど取り返しがたく、恨みがましいものはない。開いていた窓から侵入した花粉でくしゃみを二回した。くしゃみをしても独り、眼下には溢れんばかりの人。

二日酔いの脳は午前中まったくや機能しない。きのうは結構飲んでしまった。4連勤のあとだから仕方がないかもしれない。ガンガンと反響する脳を振り回してノートパソコンを起動。これは染み付いた動作であり二日酔いの影響はない、そしていつもの癖で自分のブログを開く。この零細も零細のブログのアクセス数などたかが知れているが確認せずにはいられないこの自己顕示欲が我ながら恐ろしくもある。書いた覚えのない記事。このブログは何人かで書かれてて(いまは二人)、書いた覚えのない記事があるのがすごく嬉しい。もう一人の執筆者は俺よりもよく物事を俯瞰して捉えられているなあ、といつも思う。思って、少し嫉む。でもこういった感情の機微を大事にしていきたいとも思う。

平坦な日々のなかで少しの触れ幅の中を錯綜する感情だけでも、自分にとっては価値のあるものだと最近になって気づいた。最近になって、小説を少しずつ(リハビリのように)書いているのだけど、やはり執筆の軸にあるものは自分の経験や体験で、それらにたいしていかにアンテナを張れているかというのが表現力の如何に関わるのかなあ、などと。音楽を聴いたり、アルバイトで上司に褒められたり、叱られたり、そういった出来事の一つ一つは自分にしかできない経験や体験だなあ、と先週あたりに気づいた。

例えばいまのこの思考も文章にして保存すれば自分の、もしかしたら他者の糧になるかもしれない。そうだとしたら嬉しい。嬉しいし、もっとこんなかたちの記事も書いていいと思う。

祭囃子と、人々の喧騒が聴こえて思考はぶつ切りになる。散文的ながら少しの纏まりを見せつつあった思考を中断させた祭囃子を恨もう。いやその恨みさえも文章にしよう。ブログの編集画面を開いた。