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北陸旅行記 長野編

8/29早朝、大阪発の夜行バス、長野着。

長野市内の早朝営業の温泉施設(普通の銭湯だと思っていたら、マジの温泉だったのでその分得をしたということになる。朝っぱらだというのに、多種多様なジジイでめちゃくちゃ混んでいた。外は誰もいなかったのに。これは告発ですが、脱衣場のロッカーを鍵かけずに使ってるジジイがかなりいます。ロッカー開けたらジジイの衣服が二連続であってビビった。いいのか?俺が鍵かけたらジジイ全裸で立ち尽くす羽目になるが。もう毎日通ってると、防犯意識とかそういう次元じゃなくなってくるのかな)で身支度を整え、再び長野駅に戻る。往復一時間近く歩いた。車社会……

今回は厳密に予定を組んだはずなのにもたもたしていたらまたしてもバスに乗り遅れかける。午前8時、急いでチケットを購入しギリギリで長野発扇沢行の高速バスに乗り込む。土曜日だからか、思ったよりも乗客は多い。

それにしても、昼のバスはいい。夜行バスという閉鎖された奴隷船と違って外の景色が見れるから。そこには旅情しかない。遠くの山々には入道雲がどこまでもかかっていて、今年になって初めて、夏を実感する。

バスはあっという間に山道を駆け抜け、うとうとしてる内に始まりの地、扇沢へ。

午前10時、扇沢駅着。かなり涼しい。地上とはまったく別の気候だということがよくわかる。

写真、撮り忘れた。

立山黒部アルペンルートの始点として有名な扇沢駅はかつては鉄道駅であったが、今ではは関西電力の営業する電気バスの発着場となる自動車駅だ。長野県側からアルペンルートに入るにはこの駅を利用する他ない。俺は当初岐阜県から扇沢駅へ向かう予定だったが、感染予防と利用客の現象によって全面運休が続いている。恐らく、現状関西地方から公共交通機関扇沢へ向かうには長野もしくは松本経由以外のルートはないはずだ。

北アルプスの長野県側と富山県側を結ぶ長大な山岳観光ルートである立山黒部アルペンルートは一帯が国立公園に指定されており、一般車両の通行が禁じられているため、通り抜けるには様々な特殊な交通機関を用いることになる。

その間2000メートル以上の高低差があり、黒部ダムをはじめとした様々な景勝地が点在する(ちなみに、扇沢駅の時点ですでに標高1500メートル弱)。もちろんガチの登山家なら己の脚で踏破することも可能であるが、交通機関が隙間なく整備されているため山道に一切入ることなく雄大飛騨山脈の景観を楽しむことができるので、観光目的の旅行客も多い。俺もその一人だ。

今回俺は贅沢にもアルペンルート上の高地にあるホテルを予約しているため、一日かけてゆっくりアルペンルートをまわることができる。予定では、明日午前にかけてアルペンルート富山側出口である立山駅へ向かうつもりだ。

それでは。

 

 

北陸旅行記 前日譚②

8/29午前1時。依然、バスは長野へ向かって爆走中。

車内はゴビ砂漠より乾燥している。外し忘れたコンタクトレンズを外して、やたらとでっかいリュックから眼鏡を取り出す。なんでこんな頻繁に使うものが一番奥の奥に格納されてんだよ。

今回の旅行はちょっとしたハイキング的なことをする予定で、俺はリュック的なカバンを一切持っていなかったから実家から送ってもらった。ちょっとしたリュックサックみたいなものを想像していたら、ガチの登山家が持っている"ザック"が届いてウケた。これ、「縦走」とかするやつが持っているデカさじゃん。全然知らんけど。

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夜行バス、いつも横浜の実家に帰ったり、東京に向かったりするときに使う路線だと、大体の時間感覚が染み付いていて、自分がいまどこにいるか時計を見ればおおよそわかるんだが、長野へ夜行バスで向かうのは初めてだったから、余計に時間が長く感じられる。深夜3時から4時までは、無限と全く同じ時間だ。マジで、空いていてよかった。ディスタンス…………

①でも色々と書いたが、夜行バスは視界がないから、色々なことを考える。このキメ~~独り言も、夜行バスのせいで生まれた文章に違いない。てか、暇すぎて無限に書いてしまう。そういえば、この前に書いた小説も夜行バスがテーマだった。よかったら読んでください。

https://note.com/god_arrow_jian/n/na437800b0b5a

 

そうこう言ってる内に、朝6時。バスは長野駅へ。かれこれ長野駅も3度めの訪問で、なんとなく土地勘がつき始めている。

早朝の街、驚くほど涼しい。誰もいない善光寺表参道を歩く。この街は、長野駅善光寺を繋ぐ線上に発展している。

俺は、この街はそこそこ好きで、めちゃくちゃありきたりな表現でアレなんだが、単純に空気が澄んでいる気がする。それは、マスク越しでもわかるくらい。標高が高いことが大きいのだろう。

それにしても、山がものすごく近く感じる。こういった盆地の中で生きることは、こんな山々と生活を共にするということで、それは、多分、俺には想像し得ないような繊細な機微をともなって生きることかもしれない。

俺は、それに無邪気に憧れみたいな感情も抱くが、端から見れば都会人が何を言ってるんだと思われるだけかもしれない。

まあ、たまにはいいだろ。

夏の、終わりくらい………

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早朝、長野駅。めちゃくちゃ涼しい


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駅から10分歩けばこの景色で、地方都市の自然は思ったよりも近い。

北陸旅行記 前日譚①

こんにちは。皆さん旅行は好きですか?俺はけっこう好きです。

ただ今、旅行の真っ最中ですのでその記録を残したいと思います。

もちろん、社会的情勢に配慮して種々の感染症対策を万全に期しての旅行ですので、そこんとこ、よろしくお願いします。

8/28深夜。長野行き夜行バス車内。時期のせいか、それともソーシャルな距離感のせいか、車内にほとんど人がいない。いつも4列ぎちぎちに詰まったバスばかり乗ってきたから、これは、ものすごく快適だ。いつもは遠慮して開けないスマホも、見放題だ。

隣の座席は、もちろん空席。もちろん、一人での旅程だ。友だちとレンタカー借りたりして、カーステレオをガンガンにかけて、バカみたいに騒ぎながらする旅行もそこそこ好きだが、俺は精神の根っこからネクラなので、一人旅も同じくらい好きだ。一人旅なら、好きな音楽を好きなだけ聴きながら旅行できるし、休みたいときに好きなだけ休めるし、食いたいもんだけ食えるから。人間は、誰にも気を遣わない状態が最も自然だ。

というか、自粛期間を経て、俺はますますネクラになった気がする。あらゆることが、完全に、一人でいいな、これ……という実感がめちゃくちゃ強くなっている。人は、一人でも生きていけるのかもしれない。俺の周りの人間関係は、ますます洗練されている。

そういうこと言ってると、「でも寂しくないの?」とか言われそうなんだが、寂しさとは、他者から認められることによってしか自己肯定できない人の感情だと思うので、俺は自分で自分を肯定しているし、何よりインターネットがあるので、寂しさとかそういう感情はないです。これすごい言い訳がましくなってるので、やめときます。

しかし、一人でいると色々と思考が複雑化して頭が狂ってくるという実感も、同時にある。俺のやっているなんとか観測会とかいうクソサイトでも、俺の頭のおかしくなっているようすがつぶさに観測できる。いや、俺以外にも少しだけ書いてくれてる人がいるんだから、クソサイトはよくないな。うんちサイトくらいかな。そういえばついさっきも記事が更新されていた(「自律した個人」は考えないhttp://www.yakantsuyoguchi.xyz/?p=263)ホントに、こんなうんちサイトに記事を書いてくれる人には感謝しかない。サンガツ

このまえ数少ない友だちと話していたときに、「すぐに主語がでかくなる奴はマジで狂う一歩手前。お前はすぐに社会の構造の話しかしないからもう狂い始めている」と言われたが、マジでそうかもしれん……でも、身の回りの問題がものすごいミニマルなことか、ものすごい極大のことしかないので、そうなるのも致し方ない気もする。

だから、最低限の社会との関わりとして、バイトを続けていてよかったと思う。気づけば、俺はバイトリーダーみたいなこともやらされている。今日も、バイト後そのままJR大阪駅のバスターミナルへ行った。

俺は、JR大阪駅を利用した回数とJR大阪駅で迷った回数が全く同じなので、今日もバスに乗り遅れかけて、最悪だった。何なんだ。大阪駅って、地下街だけでひとつの都市になっているから、地上とは別物と考えた方がいいかもしれない。

8/29、午前0時半。バスは滋賀県のサービスエリアへ。財布だけもって、バスを降りる。アスファルトのじとっとした固さを靴底に感じると同時に、軽油の臭いが湿っぽい空気に乗って流れ込む。サービスエリアのにおい。

知らん地名だ……と思いながら入り口を眺める。


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いや、いきなりステーキの主張つっよ!!!!!!!!!!

おわり。

 

映画『JOKER』感想/ 弱者による制裁を肯定する風潮

最近、今さらになって映画『ジョーカー』をみた。俺は映画に詳しくないので、映像に込められた様々な含意や、俳優の演技論の如何については述べることはできないけれど、純粋に「この映画が言っていることって、めちゃくちゃすごいんじゃないの?!」と思ったので、今さらですが語りたいと思う、『ジョーカー』を、そして『ジョーカー』が提示した世界と、2020年という時代について。

あと、この映画についての評論を読んだりしたわけじゃないから、恐らく誰かの論と被りまくってます、別に新しい視点を提供したりすることはないので。

 

さて、

『ジョーカー』が描く物語は、めちゃくちゃシンプルだと思う。「あのお馴染みの悪役にこんな悲しい過去が?!」って構造はあらゆるコンテンツでひたすら擦られまくってるし、ワンピースだったら全悪役でやってる。ワンピースよく知らんけど。

その中で『ジョーカー』の何がすごいかというと、それはいくつもあるんだけど、まず第一に、「俺たちだって一歩間違えたらジョーカーになってもおかしくないよな」という実感がものすごい真実味をもって提示されていること。例えばワンピースでドフラミンゴの過去がいくら悲惨に描かれても、ドフラミンゴと自分を重ね合わせることはないんすよ。「かわいそう」と思えど。完全に勘でワンピースの例えしてるのめちゃくちゃ怖いな。どうしよう、ドフラミンゴの過去がめちゃくちゃ共感できるやつだったら。

で、「ジョーカーがジョーカーになる過程」を描くこの映画は、まるでドキュメンタリーを見ているかのように卑近に描かれている。ジョーカーが社会から排斥されていく過程は、完全に一人の社会的弱者のそれでしかない。それは恐らく主演俳優の圧倒的な演技力がなせる業だと思うんだけど、とにかく、娯楽映画としての誇張を可能な限り排除して視聴できるようにつくられている。

すると、俺たちは自分とジョーカーを重ね合わせる。合わせざるをえない。そして、「ジョーカーかわいそう」という感情を超えて、ジョーカーが対峙する社会に対する敵愾心すら抱けるようになる。だから、ジョーカーがゴッサムシティをぶっ壊したとき、俺たちはめちゃくちゃなカタルシスを得ることができるわけだ。

以上は演出上の効果としての話だが、一歩視点を退いて考えれば、この映画は、既存のヒロイズムをまるっきり書き換えてしまうのではないか?と思えてくる。少なくとも、この映画を経て、俺はもう『バットマン』『アイアンマン』のような、社会的強者が経済的・政治的な力を背景に悪(とされるような存在)を制裁する構造の映画を素直にみることはできない。だって、それこそ『バットマン』なら、敵であるジョーカーは明らかに社会的弱者なのだから。

そしてそれは、いまの時代の空気感を如実に反映してるのかもしれない。それが、「弱者による制裁を肯定する風潮」に他ならない。最近の俺たちは、社会的強者を敵視しすぎている。それは、リベラルによる政権批判を超えて、前澤社長が気に入らないのだって、上級国民という言葉だって、全部その風潮だろう。そして、それに立ち向かう人々を祭り上げるのだってそうだ。NHKをぶっ壊したり、コロナは風邪だって言ったりする人々が明らかに躍進しているのも、その延長だし、その流れの尖鋭化の結果が暴徒化したアメリカのデモ隊がスーパーマーケットの入り口をトラクターでぶち壊した瞬間じゃないのか?

さらに言えば、その風潮は、コロナ禍でさらに浸透・強調されていっていないか?ということで、未曾有の巨大な恐怖を前にして失墜した既存権威とかえって伸長する個人主義の中で、ゆきすぎた自己責任論が弱者による強者の私的制裁を許容する社会を作ってしまっていないか?ということを俺は思ってならない。

でも、その風潮って、ものすごくまずい。だってそれは俺たちが何万年もかけて作り上げてきた、「なるべく客観的にみても不都合ない社会」をジョーカーのごとくぶっ壊してしまうものだから。自己責任論と社会福祉という、きわめてセンシティブなバランスの上で成り立ってきたものが、コロナ禍を背景に急速にぶっ壊れつつある。集団として生きる俺たちは、もっと壮大な時代の流れに沿って社会を変えてゆくしかない。急速な変化は我が身を滅ぼすものだ。

待ってくれ。なら、『ジョーカー』は「社会的弱者によるテロリズム」を肯定する映画なんじゃないか?! いや、肯定はさすがに言い過ぎかもしれないけど、少なくとも、この映画が、テロリズムによってカタルシスを与え、涙させるものであることは間違いない。実際、俺は泣いた。

「そんな風潮前からあったじゃん。例えば、石川五右衛門とかの『義賊』のイメージなんて、姿形を変えながら何百年も語られてきた概念だろ」という反論もあるかもしれない。ただ、あえて俺は言いたい。だから何なんだ。封建時代に形成された義賊のイメージが今になって復活し、無視できないレベルにまで敷衍しているならば、それは議論に値するものではないのか。

 

しかし、忘れてはならないのは、『ジョーカー』が大学の尖った映画サークルではなく莫大な資本を背景にしたブランドが制作したという事実だ。これはものすごく皮肉なことで、Kill the Richの映画を作ったのがthe Richそのものだ。俺たちが、社会的弱者による制裁を目撃して得るカタルシスを与える存在は社会的強者だ。舞台装置的に感動を与えられながらも、資本主義のシステムが巨大すぎてそこから抜け出せない、否定できないという重大な誤謬。そこまで自覚的になってこの映画が撮られていたとしたら、かなりヤバい。

この映画、かなりヤバいわ。

 

という感じです。

 

以上でーす。

怒られたことがないかもしれない

今日バイトで、しょうもないミスをしてお客さんを待たせていたらかなりイライラされていたらしく、すごい怒られた(個人的には、ミスのうち俺の責任は四割位しかない気がするんだが、まあいいだろう)。

そして、怒られたことによって、俺はめっちゃキョドっちゃった。めっちゃキョドって、申し訳ありません、と、もう少々お待ち下さいを連呼するだけのクソ無能botに成り下がってしまった。

その結果お客さんはさらにイライラすることになり、社員の人にも結構迷惑をかけ、後になってから、どうしてもっとうまく対応できなかったの、と注意された。

どうしてだろう、俺は考え、一つ気づくことがあった。

「いや、俺、人生で怒られたことないな…」

人生で遭遇する怒る人、といえば両親、教師、部活の顧問、などだろうか………(想像力と経験の欠如)

俺の父親は怒っているところを見たことが数えるほどしかないくらい静かなひとだったし、母親は怒っていてもまったく覇気がないし、俺が中高で所属した部活にはなぜか顧問がいなかった(いたが、部活に来なかった)。

そういえば、中学のころに一度だけめちゃくちゃ怒られたことがあったが、その時も俺はキョドった結果めちゃくちゃナメくさっているようにしか見えない態度を教師にとり激昂された。

その時もそうだし、今回もそうだが、恐らく俺は怒られに対する経験値が圧倒的に不足しているせいで、怒られるとパニックになり結果的に火に油を注ぐことになるのだ。

つまり、怒られ方を知らないのだ、俺は。

だから、怒りに達しない注意程度のことをされただけで、めちゃくちゃ落ち込むし、落ち込むのと同じくらい「いや、これ俺悪くなくね?」という感情が沸き起こっている。いつも、今回も(←ヤバすぎ)。 

そのせいでヘラヘラしてナメた態度をとってしまったり、思考が停止してクソ無能botになったりする。

俺がいままで怒られてこなかったのは、俺が有能なマジメ君なのではなく(どちらかといえば無能な不マジメ君)、俺が育ってきた環境に怒る大人がまったくといっていなかったのだ。

そういえば、昔派遣バイトでもなんかめちゃくちゃに怒っている社員が嫌すぎて(怒られる前に)一回でやめたこともある。

基本的に、俺は感情をむき出しにしている人があまりに苦手なのだ。苦手というか、慣れていない。

友達が教習所で無能すぎて教官にめちゃくちゃ怒鳴られたという話を聞いて、生涯免許を取ることを諦めたくらいだ。

俺は21にもなって何を言っているんだ。

なんだ、怒られたことがないって。

ヤバすぎる…………………

皆さんは、しかるべき時に怒られて成長していってください。

おわり