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ヤバTはもう古い、超能力戦士ドリアンを聴け

3か月ぶりにこんにちは。

 

耳の早いライブ勢の皆さんならもう知ってるし、なんならライブで踊りまくってるバンドだとは思うんですが、陰キャバンドオタクでもやっと知る機会がやってきたのでちょっと書かせてください。

異世界からの刺客、超能力戦士ドリアンについて。


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やべーバンド名と上のやべーアー写からして薄々感づいてると思うんですが、いわゆるコミックバンドです。ヤバTやキュウソとだいたい同じポジション。

彼らのようなバンドの強みは、SNSでバズりやすいこと。それはその通りで、このバンドカッコよくね?ってツイートよりもこれ面白くね?ってほうが気軽にリツイートしやすい。

その戦略はバッチリハマってて、実際彼らは結成わずか2年で数々のフェスに出まくり、ワンマンもソールドしまくり。インディーズのコミックバンド界隈ならいま一番勢いあるんじゃないですか。俺も名前だけは知ってたくらいだし。

 


超能力戦士ドリアン「いきものがかりと同じ編成」

 

映像から滲み出る自主製作感が非常に味わい深い。パンツ見えてるぞ。

ボーカルとギター2人というふざけた編成だからこそできる柔軟な曲作り、曰く超能力戦士ドリアンで一番演奏うまいのは打ち込みのベースとドラムらしい。それでいいのか?

 


超能力戦士ドリアン「チャーハンパラパラパラダイス」

 

チャーハンの食材言っていくぜ~~~っ!って言って途中でネタ切れして米しか言わなくなるのはなんなんですかね?

俺が一番すきな曲。チャーハン→パラパラしてる→パラパラっぽい曲やろう!って小学生並の論理構造もすきだし、サビの似非中華メロディーも非常に俺ごのみ。ていうか、踊れる四つ打ちイントロとAメロにラップじみたBメロ、キャッチーなサビって普通に邦ロックの売れ線ど真ん中じゃないか。やるな。

ここでふと思ったんですが、日本のコミックバンド、テクノっぽくなりがちなのはなんでですか?謎ですね。

 


超能力戦士ドリアン「恐竜博士は恐竜見たことないでしょ」(デモver)

 

確かに。

色々なところから色々なものをパクっているMVなので、色々なところから怒られたらいいと思います。

 

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ドリアンの方はがんばって一日で撮ったせいか日が傾きかけてるのが少し面白い。

これらの楽曲を含めた結構多くの音源がアップされてるから興味あったら聴いてみたらいいと思う。→https://eggs.mu/artist/durian

こうやって公式がネット上に音源あげるのは新しいプロモの形としてだいぶ一般化してきた感ある。ドリアンはライブすらもプロモの一環にしてフリーだったり格安でやってることが多くて、最近のバンドは色々やるな~~って素直に感心しました。

実際、彼らの音楽はライブでこそ輝くと思います。先日の見放題2018ではじめてドリアンのライブ観ましたが、エンターテイメント性にステータスと持ち時間全振りしてて終始フロアーは湧きっぱなし。強烈なパフォーマンス、大トリだったこともあって他のバンドの記憶が消えました。

今後注目せざるを得ないバンドなんで、対バンやフェスで観る機会あったらぜひ前のめりで観ましょう。ドリアンは応えてくれるよ。

10月に心斎橋ビッグキャットでワンマンやるらしいから行ってさしあげろ。

 

 

ここ3ヶ月、忙しかったりしてた訳ではない、暇すぎてブログ書く優先順位が上がらなかったのである(言い訳)。

下書きはバシバシ溜まってるので夏の間に消化していきたいナ~~~

『高木さん』カバーソング集の「良さ」がマジ

※文章がキモい

 

 

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以前の記事でアニメ『からかい上手の高木さん』のEDテーマ『気まぐれロマンティック』のカバーがエモ太郎(EEAE)なんだという話をキモい文章で書きました。しかしED、2話ごと変わるというこのご時世考えられないヤバヤバファンサービスを提供していただき、そうなると当然カバーアルバムも出るということで……

 

↑親指の絆創膏は包丁で指先を切断しかけた名残

 

え~!?ED全七曲フルバージョンに高橋李依(高木さん役)のインタビューも収録??

聴いてみたいでしょ~?

うん、みたーい!

せーのっ!(プレイヤーの再生ボタンを押す)

あぁ~!!エモ素の音ォ~!!😬😬

 

え、買ってない?原作者のツイッターだけでファンサービスは十分??ファンサービスには相当の対価を払う必要があンだよ(古いオタクの思考)。

アルバム全7曲、1曲ずつレビューしてもいいんだけど、そんな回りくどいことしても誰も読まないしダルいのでやめて、かわりに全体的な選曲の話をします。前の記事では、いきものがかりという選曲は高木さんらしくてイイナ~~ということを書いた気がするんですけど、その後の選曲を見ると一昔まえの曲が中心。イマドキのJCはチャットモンチーとかHYとか聴かんでしょ。でやっぱこのアニメの視聴者の年齢層直撃ソング狙ってきてんだろうナ~っていう。プロモーションとしてはそれで大正解なんですけど(俺みたいなキモオタが大漁だから)、キモオタとしてはなんで高木さんが微妙に古いJ-POPばっか歌ってるのかってことが気になるワケですよ。で、これは仮説なんですけど、『元高木さん』の時間軸を現在として考えれば、『高木さん』本編がちょうど10年位前になって辻褄が合うナ~っていう。←めちゃくちゃ早口で言ってそう

 

ブックレット収録のインタビューでは例の「カラオケで歌う高木さん」感のヤバみについて触れてたんですけど、ものすっギョいプロの矜持が感じられます。

どの曲も「この曲は高木さんの心情です」って言い切ることもできないので、逆に「どれが高木さんの本心なんだ!?」ぐらいの感覚で聴いていただけたら嬉しいですね。「このフレーズ刺さった!」って思ってもらっても、「そこカラオケだよ」って言っちゃうかもしれないし(笑)。

もはや高木さんが憑依してない???オタクが夢中になるワケだ…!(OVAに)スタンバっておけェ(ブライトさん)!なみに個人的なおすすめシーンは「AM11:00」のラップパート。そこだけループ再生してたら呂布カルマ並みのライムを刻めるようになったのでフリースタイルダンジョンのオファー待ってます。

 

アニメも終わって9巻も夏まで出ないし、高木さんロスに苦しみぬいている全国の西片くん一同、CD買いましょうね。俺はこれから高木さんとカラオケ行く予定があるのでこの辺で。

以上

 

 

ヒトリエのツアーファイナルに行ってきた

ヒトリエは誰を救うか。

どうしようもなく2つに裂けた心内環境を制御するだけのキャパシティなどが存在しているはずもない、バーチャルとリアル、オンラインとオフライン、POPとサブカルの狭間で苦しみもがく、俺を含めた情けない人間(もちろんそれは、ヒトリエのメンバー自身でもある)のために、彼らは必死に音楽を鳴らすのだと、今日のライブで確信した。 

 

『絶対なんて言葉はもうあたしに関係がない。ひとつってあたしを唄う言葉ってない、それでもあたしは唄うわ。』幕が開いて、真っ先に彼らはそう告げた。なんて力強い宣言。揺れ動くアイデンティティ、片方を選べば遠ざかってゆくもう片方、一方通行の生活。個人が抱えるには重大すぎる葛藤の数々を代弁しようとする、宣言。ロックンローラーが代弁者であるべきなら、ヒトリエは紛れもないロックスターに違いない。

『僕がなりたかったのは、愛だ。』余りにも普遍的で、泡沫の夢のような主題に、果敢にも挑戦したのが『ai/SOlate』であり、『UNKNOWN-TOUR 2018 “Loveless”』であった。愛が唄われるとき、それはいつも切り取られ、切り刻まれ、その断片を、残骸を享受するしかない。しかし彼らは、不完全で、絶対的からは遠いけれど、「愛」その輪郭を掴んだのだろう。今までよりも力強いビート、さまざまな音楽性を貪欲に取り入れる姿勢はその象徴だ。

彼らの唄は、いつだって架空の少女をかたどって、聴く者を誘って止まない。でも、もはやその少女は、だれか1人の象徴ではない。ハッピーかアンハッピーか、web上かライブ会場か、vocaloidかロックバンドか、その垣根など、wowakaは、ヒトリエは、軽々と飛び越えてしまう。架空と現実を隔てる壁に巨大な風穴を開けた『アンノウン・マザーグース』、全身全霊の絶叫がフロアーを埋め尽くした瞬間。少女の幻影は無限に膨張し、ありとあらゆるものを鮮烈に染め上げた。それは、宇宙の始まりに最も似た情景だったに違いない。「俺たちは音楽を超越した、宇宙に、君と行きたい、行けるかな」彼らは問いかける。行ける、飛べる。産声を上げ始めた夢は、もう止まらない。

『IKI』は、彼らのモノクロだった、モノカラーだった世界を、花束のような可憐な色たちで彩った。そして、『ai/SOlate』が色彩で充満した世界から、普遍的な「愛」を見いだした。愛、そこにある可能性は、終わりなく広がり続けるだろう。

どこまでもついていこう、宇宙の果てまでも。強く誓った。

その力は零にも無限にもなれるーー「マジンガーZ INFINITY」

 レイザ?そこの角を左に走って行きましたよ。

 

事実として、僕は未成年だ。そしてこの事実は僕が「マジンガーZ INFINITY」を観ることの何の枷にもならない。age50〜くらいのおじさんたちに混じって「INFINITY」で涙を流すことも、その感想をネットの縄張りに叩きつけることも、年齢から何の束縛も受けていないのだ。

 

この映画を見る層として、僕のような「マジンガーのことについてはそこそこ詳しいが、当時へ想いを馳せる訳ではない若者」は比較的珍しいのではないかと思うので、この仮定を踏まえてこの映画の話をしてみたい。

 

この映画のキモは大胆なアクションというより、その逆、緻密な構成である。本作品の舞台はテレビ版の10年後。もちろん現実ではテレビのマジンガーから30年以上経っている。正統な続編ということで意識せざるを得ないのだが、最初に水木一郎のOPが流れた瞬間、「ああ、これは昔を知っている人向けなのだ」と感じてしまう。それは良い意味でも悪い意味でも、だ。

 

次に偉大なる勇者、グレートマジンガーが登場し、必殺武器の乱舞!最新鋭のCGで描かれたアクションシーンは、重厚感を犠牲に、メリハリのついた見応えのある仕上がりになっている。ストーリー的にもファンサービス的にも機械獣が少数で襲ってくるわけにはいかないのでこれで良かったのだと思う。必殺技を叫ぶ意味のなさといったらたまらなくアツい。随所でで手描きのカットもあり、凝り固まった思想が無ければ楽しんで見られるだろう。

 

このように冒頭にかけて描かれるのはある種の懐古的なエンターテイメントである。元祖スーパーロボット、俺たちのマジンガーが帰ってきた!その感動だけでひとしおなのだ。

 

そして10年後という時間が描写される。ジュンの妊娠、甲児とさやかの立場、ロボット開発事情。ここは言わば話を駆動する装置で、伏線がいくつも散りばめられる。この伏線に沿って後半に一つ「裏切り」が放たれるのだ。

 

後半に行くにつれて「昔の方が良かったのではないか」という文言がうっすらと浮かび上がる。自由に機械を駆り戦いに明け暮れられた、初々しい少年少女でいられたあの頃の方が。そこへ逆らうように投げられる牢獄でのジュンの台詞は個人的に一番のクライマックスではないかと思う。

 

「あの頃の方が良かったーーなんて死んでも言わない」

 

佳境へ入る前に少し脱線しよう。ある時期、僕は「ああマジンガーやゲッターの新作映像をやらないかなあ」というしょーもない嘆きを抱えていたほどだ。思えば少し前はまさにリアルロボット全盛期。というよりスーパーロボットを作るという意味合いが失われていった時代だったのだと思う。

 

注意しておくと、これから言うリアルロボットとスーパーロボットというのは作劇上の話である。未知のエネルギー、未知の巨大な敵。或いは、既知の技術、人の乗る敵機。大雑把な区別である。

 

さて、一般的なイメージではーーといってもこの界隈がどこまで一般的なのかはわからないがーーマジンガーZとは正にスーパーロボットの代名詞。ホバーパイルダーへスーパーパイロット・兜甲児が乗り込み、そのままマジンガーZへパイルダーオン!無敵の超合金Zが人の頭脳と合体して一騎当千の鉄の城。ロケットパンチにドリルミサイル、光子力ビーム、アイアンカッタールストハリケーン、トドメのブレストファイヤーで恐るべき機械獣を原子に打ち溶かす!

 

言ってしまえばそれまで、というかそこに人を感じられなかったのかもしれない。ガンダムが代表するような、「兵器」としてのロボット。「ロボット」でしかないロボットよりも、「兵器」としてのロボットなら、ずっと身近でミリタリーなネタも引っ張ってきやすい。光子力、ゲッター線よりも一般化されたミノフスキー粒子の方が人間関係を主軸にしたドラマにそぐうのだろう。人が扱える技術があってこそ、初めて人は人と向き合える。ブラックボックスはそれだけで存在感を放ってしまうのだ。

 

とにかくスーパーロボットが下火になっているのは確実で、その結果なのかリアルロボットたちもスペック上はどんどんスーパーになっていく(そういうものを全部ひっくるめて時代の要請なのだろうけど)。

 

ガンダムの戦闘シーンというのは異質で、各々が主義主張を叫び、戦闘が行われながら対話も同時に発生する。人の対話を楽しむというのはドラマチックで、きっと全ての創作物に通ずるのだろう。リアルロボットの作劇は「王道」なのだ。

 

つまるところ、創るという観点において、スーパーロボットというのはやり辛い。あくまで私見だが、現代でも力の入っていないリアルはあっても入っていないスーパーというのはあまり見ない。スーパーロボットというのは一大プロジェクトなのだと思う。

 

今回のINFINITYも一大プロジェクトだ。久しぶりの兜甲児マジンガーで、しかもテレビ版の続編。当時の世代へ求心しておきながら、そこで敢えて「昔の方が良かったーーなんて死んでも言わない」意味。言うに及ばず、現在の肯定こそがこの映画の最大のメッセージだからだ。

 

「変身」も「操縦」も「搭乗」も。戦後から続く男の子向けの文化はすべからく、自分ではない何かへ変貌することで暴力を許可されるという構図をとっている。暴力とはまさに「父」であり、仮初の身体にのみ宿る成熟の証であった。

 

マジンガーにとっての「昔」とは輝かしい絶頂期でもあるが、同時に、虚構の暴力に耽溺した時代でもあったはずだ。「昔」ーーあの頃に比べれば、あの頃少年だった人たちはほとんど例外無く息苦しさを感じているに違いない。それはこの映画の兜甲児たちも同じだ。世界を救った英雄ですら、現状のシステムに縛られ、周囲が暴力を許可しない。鉄也のように軍属となり束縛の対象となるか、甲児のように政治から離れて力を失うか、プロセスは真逆でも根底は等しく「父」の喪失による永遠のモラトリアムなのだ。

 

ドクターヘルという究極の終焉に対してしか力を発揮できない甲児は少年のまま時が止まっていると言わざるを得ない。さやかは自立し、ジュンは母となることを選んでいるのから見ると、彼はなんという体たらくだろうか。決して英雄=「父」ではなかったボスこそが一番地に足をつけているというのは皮肉であり事実である。しかし誰が一番、あの頃テレビのマジンガーZにかじりついていた少年たちに近いのかといえば、これまた間違いなく甲児なのだ。哀愁とともに去来するのは、自分にはもっと可能性があったのではないかという嘆きだろう。

 

甲児は最終的に「INFINITY」との対峙を行う。まさに「無限の可能性」であり、甲児は戦いの中ですら無力な自身を自覚したうえで、戦いの果てにあると信じていた「父」たる自分の喪失に気づいたうえで「ああすればよかった」という嘆きに立ち向かわなくてはならないのだ。

 

先程述べた通り、今回提示されるメッセージは現在の肯定である。甲児=観客はこの現実を前にしてどう肯定すれば良いのか?このように、ありきたりな構造に観客を丁寧に組み込むことで、甲児は紛れもなく主人公たり得ているのだ。

 

リサという新規キャラクターは、徹底して無垢な少女として描かれた。それは甲児に次世代というフックを創り出し、「INFINITY」を否定させるための最後の仕掛けだ。もしも、アンドロイドであるリサが甲児たちを見て人を学んでいく様が、観客たちの中で成長する子どもと合致しなければ、最後の「INFINITY」への勝利は御都合主義と化してしまう。ターゲットを絞り、丁寧に構造を醸成させたことでようやくこの物語は説得力を持てる。「マジンガーZ」に内包された、「マジンガーZを見ていた人々」という概念をモチーフに巧妙に作られた、難産の伺えるスーパーロボットアニメ。今スーパーロボットを作る時、使い古された「父」という概念を扱わなくてはならないことがわかるだろう。最近では、ダーリン・イン・ザ・フランキスは初っ端からそういった成分がこれでもかというくらい濃厚に詰められた期待の持てる作品だ。

 

奇しくもマジンガーZEROというのが存在していて、詳細は(疲れたので)省くが、可能性を開いた「INFINITY」に対して、可能性を閉ざす「ZERO」と言える。これも「マジンガーZ」に内包された様々な概念をメタ的に扱った素晴らしい作品なのだが、マジンガー以外の存在を許さないZEROも原理的には同じ存在だ。(対極に位置するものは得てして源流を同じくする)

 

「父」でいるために、マジンガーが唯一無二絶対の最強の存在として君臨する世界のみを存在させる。駆動させているのはINFINITYと同じくかつての栄華への未練である。暴走しまZEROの倒し方もINFINITY同様、現在の肯定と読み換えられるが、鍵となっているのはやはり可能性である。

 

昔のマジンガーも確かに凄かった。しかしあの頃に気ままに振る舞えた「父」に縋っては、その後に続く可能性が消えてしまう。どう仮初の「父」から抜け出すか?未だ正解を見つけられない大人たちが、今はいつか見つかる可能性に託すしかない。それまで彼らにできるのは虚構に塗れた現在も(もちろん過去も)肯定し続けることである。過去を神格化しINFINITYの夢に逃避するか、現在のみに拘泥し可能性をZEROとするかーーそのどちらでもなく自身の生きてきた時代を肯定しながら否定し、せめて未来だけは肯定しなければ、無意味であるとわかっているこの世界から本当に意味が消えてしまうのだ。数字のうち、始まらない「ZERO」、終わらない「INFINITY」でなく、マジンガーは限りあるアルファベットの終わり=終わらせるための「Z」でなくてはならない。

 

偽りの身体というのもまだまだ捨てたものではなくて、そこに段階があるだけで無限の可能性があるのだと思う。役者と役という距離が、現実とキャンパスという距離が、芸術に無限の可能性を生むように、ロボットがあってパイロットがいる限りそこには無限のドラマが生み出せるはずだと僕は信じている。リアルロボットは距離を縮め、ロボットによる擬似的な人間ドラマを再現する。スーパーロボットには独自の方法論があるはずで、ロボットへの距離があるからこそ人は偽りの力を得て神にも悪魔にもなれる。それは繰り返しでもあり、夢から抜け出そうとしているエヴァンゲリオンのような作品もあるが、それはそれとして未来を信じるという自虐的な希望が、この映画に演奏されている。

『高木さん』エンディング曲の「良さ」がマジ

※ 書いてから思ったけど文章がキモい


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アニメ『からかい上手の高木さん』、「良い」…

その良さを事細かに記述した場合999999999999文字を超えはてなブログのサーバが死ぬのであえて「良い」の2文字のみを遺しておきますけども…「良い」ですよ…

原作マンガのファンだった俺は、もちろん単行本は揃えてますが、
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(↑抑えきれない自己顕示。写真一枚に現代社会が抱えるカルマが凝縮されている)

 アニメも期待を裏切らない出来でした。

 

全編エモみが溢れでてエモ死にするところだったんですが(緊急エモみ速報、発令~~っ!!🙄🙄🙄🆘🆘⚠️⚠️⚠️⚠️)、それに止めを刺したエンディングの

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いきものがかりの名曲「きまぐれロマンティック」のカバーを高木さん(cv.高橋李依)がしているんですが、見事にハマってる。ハマり役ならぬハマり曲。←全然ウマくない

 



上手すぎない歌唱がホントに素晴らしい。プロが素人っぽく歌うのってすごい難しいと思うんですよ(実は簡単なことなのかもしれないが俺はわからない。なぜなら俺はプロじゃないから)。

てかこれまさに「カラオケボックスで歌う高木さん」そのものじゃないですか。その衝撃の事実を悟った瞬間に、あれ!?どうして俺が高木さんとカラオケ来てるんだ~!!??って錯覚しちゃったよ~こりゃくまったくまった!w
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いきものがかりっていうマイルドな選曲も高木さんらしいし、

つめたくあしらった
こしゃくなえくぼに
ちょっと 心が揺れている

ここの歌詞とかモロ師岡で西片の心情なんじゃないんですか??これ書き下ろしの曲だっけ???????いや違うか。

高木さんのことだから西片と二人じゃなくて真野ちゃんたちも誘って四人でカラオケに行くことになって、いつものごとく散々西片をからかうんだけど、ようやく高木さんが歌う番になって、歌い始めた瞬間いつもとちょっと違う高木さんの声に西片はドキドキして、そんで「ちょっと」のところで高木さんが西片に目配せして西片が赤面する場面がアリアリアリアリ(ブチャラティ)と再生できるんだよォォォーーーッ

~~~~殺👊👊👊👊🤣🤣🤣🤣

 

俺が伝えたいことはこれで以上です。