備忘録β リバイバルの文脈で全然関係無い曲がバズっている件
最近思ってることとして、シティポップリバイバルの文脈で(もしくは、その文脈が少しずつ拡大されていった結果として←どっちだ?)全然時代もジャンルも違う日本の音楽が回収されているということで、それがYouTubeの再生数という形でも顕著に表れている。ここで重要なのは、相変わらずのポスト・インターネットの流れに違わず、回収されるものはアーティスト/アルバム単位でなくあくまで単一の楽曲単位であるということ。
例①
キリンジ/エイリアンズ
再生数えぐ。これリリースが2000年で、ジャンルとしてはフォークだと思うんだが、確実にシティポップの文脈で再評価されてる体感がある(エビデンスなし)。そういえば空音の影響もあるのか??完全に忘れてた
例②
平井堅/POP STAR
亀田誠治プロデュースのまごう事なき直球のJ-POP。2005年。これは少し状況が複雑で、この曲自体(もちろんPVの雰囲気も含めて)80年代の松田聖子(が出演したザ・ベストテン)を意識して作られたもので、それだけならオメガトライブをオマージュしたサカナクション/忘れられないのと変わらないんだが、この曲はリバイバルとは全く違う文脈で2000年代前半に制作されたのが今さら注目されてるというリバイバルの二重構造になってる。
例③
SOUL'd OUT/ウェカピポ
見るたび再生数が百万単位で増えてるな。これシティポップというよりは単純にラップミュージックが流行ってるからウケてるだけのような気もするが、それ以前にトラックが明らかに80年代のポップスあるいはジャミロクワイの延長にあるセンスなので(あくまでトラックが)、あえてこの流れで紹介する意味もあると思った。トラックだけ抜き出せば今の感覚でもオシャレ、なので。
これらの楽曲は今の邦楽リスナーに(恐らく)竹内まりややオメガトライブ、もしくはフィッシュマンズやゆらゆら帝国と同じような文脈で再評価を受けている気がする。こんな流れは今までになく新しい。要するに、"それっぽい"というだけでウケている。
すでにポピュラー音楽に内在していたアルバムとしての、あるいはアーティストの政治性みたいなものは意味を失って久しいが、ついにはポピュラー音楽が持っていた時代性やジャンルまでも漂白されてしまったという流れだろうか。
コエ~~よね。
ちゃんとまとめれば意味のある文章になる気がするが、面倒なのであくまで備忘録として……………