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『仮面ライダージオウ』最終回。ソウゴもジオウも、間違いなく王様だった

仮面ライダージオウが、そして平成ライダーが、きょうついに最終回を迎えた。

 

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このキービジュアルの何人かのライダーが当初ディケイドライバーを付けていて…なんて騒動も一年前のことだ。そして、オリジナルキャストの出演情報によってざわつく界隈。ディケイドが30話起こした「祭り」を、ジオウは見事に一年間走り続けたと言っていいだろう。改めて、お疲れ様といった感じだ。

最終回「アポカリプス」は展開自体はかなり強引でしたが、結末としては『龍騎』を思い出す着地になりました。流石に裏切り系は食傷気味なので、もっと手札が無いの?とは思いましたが。

ただそのぶんグランドジオウの復活やオーマジオウの戦闘など、演出面は派手で良かった。ダグバやエボルトをワンパンするのは少しヒヤヒヤしましたが、一年間オーマジオウを溜めに溜めてきた不思議なカタルシスが免罪符に。

ディケイドもそうでしたが、最強の座をアニバーサリー作品に置くことで、他作品の魅力を際立たせているような気がします。

 

さあ、『ジオウ』総括です。

 

 

平成ライダーの王

 

 

ジオウはオリジナルキャストに向き合った。

何度も比較してしまうが、リ・イマジネーション(再構築)することで過去のライダーを描いたディケイドと違い、ジオウは一年間で本物に向き合い続けたのである。

 

ビルド・エグゼイドの最近のキャストから始まり、アギトや龍騎といった一期の懐かしい面々、アクアやエターナルのような予想外のライダーに、「架空のオリジナルキャスト」という変化球のミライダーたちまで。

 

そして外せないのが、冬の「平ジェネ」と夏の「OQ」で出た彼らだ。

 

俳優としての格もさることながら、何よりもあの『電王』の主役なのである。

変化球で始まったと思えば、いつのまにか圧倒的熱量を持って完結したあの『電王』。役者がどんどん変わっていったにもかかわらず、続編が作られ続けたあの『電王』。

あえて暴力的な言い方をすれば、『超電王』という偽物(作品の質にかかわらず)が既に出されてしまった作品に対しての、これ以上ない“本物”だった。『平成ジェネレーションFOREVER』は、「あの頃ライダーがいた」という“本物”の記憶を呼び起こすエモーショナルな作品だったのである。

 

 

 

これに限らず、ジオウはオリジナルキャストを出すことで平成ライダーを総括していった。

印象的なのはグランドジオウの初登場シーン。思わず以下のような記事を書いたが、“本物”のリプレイのような演出によって、いかにジオウが平成ライダーを統べる王たるかというのをまざまざと見せつけられた。

 

王の誕生を祝う - 鼻紙diary

 

最終回、久し振りにリプレイをスウォルツにブチ込んでくれたのも最高に爽快でした。あの圧倒的に短い尺の中でまさかの変身音フル!夏休みの宿題が終わってないのに遊ぶような、悪い贅沢をしてる気分。

まあ、もっと「歴史が消える」ということに尺を使えれば映えたんでしょうけど…ないものねだりか…

 

王様とは

 

 

ジオウの面白いところは主人公が「王様」を目指しているところである。

王様。

今の時代、中途半端に歴史を学んだものからすれば、王様とは旧時代の遺物というイメージが強いのではないか。番組当初、私がソウゴに抱いた不審な印象はそれが原因だと考えている。

 

言うまでもなく、民主主義が良い。民主主義についても王政についても研究したわけでもないのに、私は思慮の浅さゆえにこういった思い込みを持っている。

なぜなら、そこには自由の保障があるからだ。民衆の選択が反映される社会に王様は必要ない。なんとなく、そんな気がしてしまう。

 

もちろん、『ジオウ』が王様を目指す主人公を打ち出すからには、「王様」の定義をしっかりしてくるだろうとは思っていた。

たとえば『暗殺教室』が「暗殺」というキャッチーなフレーズをしっかり教育論に結びつけて再定義したように、私は「王様」の再定義を一年間待ちわびていた。

 

それが形になった、と感じたのがのが『OQ』である。

 

遊び心に溢れ過ぎた、歴史に残らない快作『劇場版 仮面ライダージオウ』を観よう - 鼻紙diary

 

世界をぜんぶ良くしたい。みんな幸せでいてほしい。そう思ったら、王様にでもなるしかないじゃないか!

 

これは第1話「キングダム2068」にて、ソウゴが初変身の直前に放った台詞である。世界を良くしたいと言う純粋な願いが最初に提示されている。

 

彼が王様を目指す根源は、弱い人へ手を差し伸べる実にヒーローらしい感情だ。

しかし、それは第一話の時点では不気味ささえ帯びるほど純粋な願い。ソウゴはいずれ「最低最悪の魔王」と呼ばれるという事実が不気味さを物語の要素として加速させる。

 

『OQ』でその不気味さは王の定義として昇華された。『FOREVER』が“本物”を縁取る映画だったとしたら、『OQ』は影に隠れた“偽物”にスポットを当てる映画だったのだ。

佐藤健という本物の客演から一転、まさかのパロディ「仮面ノリダー」の客演から始まり、バラエティのG、舞台の斬月、漫画のクウガと大騒ぎ。

彼らは本物ではない。選ばれなかったと言い換えても良い。しかしそれでも、彼らは人間の自由のために戦う仮面ライダーなのである。

 

映画にて敵を打倒するきっかけは彼らが“溢れ出す”ことだった。枠に収まらない平成ライダーたちを、ジオウは肯定し、受け入れる。

ソウゴの純粋な願いは、平成ライダーという土壌でこれ以上はないという形で実現された。それが『OQ』だ。クオリティに賛否両論があっても、ジオウの映画としてはこれ以外ないものだったといえよう。

 

力あるものから力を継承し、力なきものを救う願いを欠かさぬまま王への道を歩む。同時に平成ライダーの本物と偽物の両方に光を当てることで、ジオウという作品自体がソウゴの歩む覇道とシンクロする。

そう、「王様」とは、力なきものの自由のために力を使うもの。それはそのまま、「仮面ライダー」でもあるのだ。

終盤の展開において、各世界の「王」が「仮面ライダー」だという説明がなされた。平成ライダーを20作品作り、その再定義が「王」だったのだろう。

ジオウはアニバーサリー作品なので、何にせよお祭り要素が必要である。その要件を作品内へ転化するための「王様」というキャッチーなフレーズ。計算高く馬鹿をやると言えばいいのか、平成ライダー20作記念として、そうあるべくして生まれた作品が『ジオウ』だったのである。

 

魔王にならないために

 

魔王という言葉も、王様が再定義されれば再定義される。ジオウではオーマジオウという主人公の未来が魔王として描かれてきた。

ジオウトリニティとオーマジオウの戦いで示されたように、王様と魔王は仲間の有無によって区別できるというふうに描かれている。

 

本編で繰り返し描かれてきたが、魔王になるかもしれなくても、ソウゴは世界を良くしたいという願いを捨てきれない。魔王というと独善的なイメージがするが、自分を信じて進むという点では、ソウゴに魔王の素質は十分にあったといえる。

しかしソウゴは、最終的に魔王の力(オーマフォームまたはオーマジオウ)を手に入れてさえも、魔王にはならなかった。それは、彼にゲイツら仲間が居たからだ。

反対に、ゲイツツクヨミといった仲間を失えば失うほど、ソウゴはオーマジオウに近づいていったといえる。

 

ゲイツリバイブという救世主となり、魔王を打ち破るところまで迫った男。

彼は「ソウゴを抹殺する」から徐々に態度を軟化させ、「ソウゴと一緒に未来を創りたい」、最後には「オーマジオウになれ」と言って事切れる。壮絶なデレである。

ソウゴとゲイツの関係は序盤〜中盤で構築されたものが全てであり、そしてこれこそがジオウがオーマジオウになってもなお魔王にならなかった理由だ。

反対に、最終回の時点では、ソウゴがオーマジオウという究極の力を手にしてさえ、魔王にはならないとゲイツは信じたということである。

 

 

倒す相手と目的が定まっている主人公のような背景を背負っているものの、ゲイツは2号ライダーの総決算と言うべきキャラクターであった。

しかしそれは悪い意味ではない。ゲイツが、ソウゴを魔王にしないという目的を持って動くからこそ、ソウゴは魔王にならない。

言い換えれば、様々な事情で負けることも多い2号ライダーという存在も、決して誰かの脇役ではないということだ。

このゲイツの位置付けも、ジオウという作品の優しさ、王としてあらゆる存在へ手を差し伸べる精神性に表れていると思っている。

 

 

未来のことも他人のことも、いくら考えてもわからないものだ。しかし我々は、それを気にして自分のやりたいことを引っ込めることが多々ある。

「嫌われるかも」「失敗するかも」という気持ちに囚われ、やりたいことができない。ソウゴも、ジクウドライバーを一度捨てている。

ソウゴが再び進む決意をしたのは、ゲイツが止めてくれると言ったからだ。濃厚な少年漫画的“ライバル”の文法こそが、ジオウという作品を成立させていると言ってもいい。ライバルも逸材、である。

 

最終回、というかスウォルツはソウゴと対比して常に「間違った王」として描かれたので、結果的にめちゃくちゃ小物になってましたね。

「意見は求めん」という台詞から分かる通り、彼は間違った自分を正す仲間をそばに置かないので、結局独善的になってしまうと。

 

ソウゴの王様になりたいという目的、ゲイツの魔王にさせないという目的が番組を支える軸となってきた。彼らはやりたいことをやらないのではなく、「やりたいこと」のぶつかり合いの中に答えを探してきた。

 

私の心に強く残る言葉がある。龍騎の終盤で編集長が真司に言った台詞だ。

 

お前だってここんとこにしっかり芯がねえと、話し合いにもなんねえし誰もお前の言うことなんか聞いてくんねえだろ。な?

 

平成ライダーでは「アギト」から複数のライダーが描かれるようになった。ライダーに変身するとき、彼らの中には常に目的がある。そして、時には戦う。

ライダーが複数いる意味とは、誰もが魔王にならないまま王様になることを、独善にならずになりたい自分を目指すためなのかもしれない。

ウォズやツクヨミも「語り部」「キーパーソン」という役割と同時に、仮面ライダーの力を手にした。そもそもソウゴたちが戦ってきたのはアナザーライダーというライダーのなり損ないたちである。

ところでウォズ、語り部というところを活かして最初から最後まで縦横無尽の活躍でとんでもなくいい役どころになりましたね…

最後に一人だけ記憶を残している?のも、語り部としては寂しくも美味しいポジション。

 

閑話休題

オーラの死後、ソウゴがスウォルツに対して啖呵を切るとき

 

お前さ、王には向いてないよ

 

と言った。ソウゴは「民を守る」と「王様になる」という二つの目的のために戦う。

前者は昭和の時代から繰り返し描かれてきたし、後者も平成ライダーが向き合ってきた闘いの再定義だと言えるだろう。

 

余談だが、『クウガ』には仮面ライダーは一人しか登場しない。クウガのあらゆる面での高品質さは、「五代雄介が間違っている」という考えをいかに抱かせないかというところにも作用している。少し作劇のバランスを崩すだけで、グロンギ以外に力を振らない雄介の姿は空々しく見えてしまったことだろう。

 

ソウゴ、そしてジオウ

 

以前、こういう記事を書いた。

 

なぜオタクは伏線回収が好きなのか - 鼻紙diary

 

かいつまんで言うと、「意味がないと思っていたものに意味が生まれるときが一番アツい」という私の好みの話だ。

ジオウはお祭りなら空気を出しながら、実にこの繰り返しだったな、と。

 

『FOREVER』にて虚構に想いを。

『OQ』にて枠外へ光を。

本来生まれるはずの無かったミライダーや白ウォズの存在。

最初は変身できなかったレジェンドキャストの変身。

かつて選ばれなかった加賀美や京介の変身。

バトルファイトの終わり。

何より、ゲイツツクヨミやウォズは本来この時代のものではない。彼らも一種の枠外なんですが、それすらも2019年に取り込んでしまうのが、ソウゴの王の器。そして、ジオウが示す平成ライダーシリーズの器。

 

ソウゴは最後、時空を破壊した。仲間を失ってどこまでもオーマジオウに近付いたが、もはや彼は魔王ではない。今は仲間はいないが、仲間がいたからである。

そしてまた、仲間と共に歩む道を選んだ。ジオウにおいて時間はただただ流れていくものではない。過去が未来へ進むだけでなく、未来が過去に影響を与えてきた。仮面ライダーツクヨミはまさにその象徴です。

 

これは少し外れますが、ソウゴ役の奥野さんの演技は凄く上手になりましたね。深いところも持ちつつ、感情表現が素直だからゲイツやウォズがついていくことに説得力が生まれている。すごいことですよこれは。

最終回、ソウゴが戦う時、一挙手一投足の迫力がすごい。これはオーマジオウになるのも当然、という説得力にもなる。

 

王とは、再提示された仮面ライダーとは、弱きものを守るために、力を束ねるもの。

その願いが魔王へ繋がらないように止めるのがゲイツたち仲間の存在、という仕組みは先ほど説明した通りです。

 

メタという言葉に収まらず、平成ライダーそのものを再構成した作品、それが『仮面ライダージオウ』。

とにかく平成ライダーの20作品ぶんを担保にして突き進んできた。ビルドが科学、ゼロワンが人工知能をテーマにするならば、ジオウは間違いなく「平成ライダー」。

 

顔文字や「なんか違う」演出、魔王というワードでジオウの独自性を打ち出す。特に「なんか違う」演出は大好きで、ジオウのやりたいようにやってやるぜ!な感が溢れ出て印象深い。

また、ジオウとレジェンドのバランスをとる目的か、歴史を奪うという形でこれまでにない客演をやっていたのも記憶に残っています。

 

怪人を倒す路線になることでジオウⅡやゲイツリバイブ、ウォズギンガのシンプルな強さも見栄えが良かった。グランドジオウは戦果は悪いものの、初登場シーンでお釣りがきますね。

 

ソウゴと『ジオウ』という作品は幾度となくシンクロします。

やりたいことをやる「仮面ライダー」自体にも魔王となる可能性があるということです。実際、『OQ』は賛否両論というか、手放しで褒めることはできない作品でした。

しかし、シリーズを締めくくる姿勢としては、これほどまでに自作品に向き合った作品も無いんじゃないかとも思うのです。

果たして制作側のなかにゲイツはいるのか?それはこれから先の「令和ライダー」が見せてくれるのでしょうね。

 

ゲイツ、一家に一台欲しいな…自分でならないとだ。

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