孤独を制するか
病理は孤独、考える自分もまた孤独であり、孤独だから考える。
12:25発雲雀丘花屋敷行の終電に揺られる23分間は、熟した果実に閉じ込められた宇宙のように甘美な孤独だ。
種々の整理しきれない感情を玩ぶ。
憂き世は、母胎の如く俺を包む轟音に委ねる孤独ほど優しくはない。
もっとこう、なんというか、歪だ。
ひとの性格を16に分けたら、俺はINFPという型に収まるらしい。
16タイプの中でも一番「社会不適合者」なタイプと言われているんすよ。内向的で、地に足ついてなくて、感情で物事を捉えて、ルールを気にせずに生きている。そして機微に敏くて感受性も強いから、ストレスも半端なくて(しかも-Tの人はストレスに敏感らしい!)。よく言えば芸術家タイプというやつなんですけど、裏返せば社会で生きていくことが出来ない、まともな職に就けないって言われてるようなものなんですよね、このタイプって。
http://noname-7shi.hatenablog.com/entry/2018/06/07/010518より引用
バイトの面接を4回連続で落ちたことからも、俺が社会に適合してないのは確定的に明らかだ。
オタク趣味は俺を内向的にしたし(内向的だからオタク趣味に没頭したし)、深夜2時に照明の落ちた部屋でこんな文章をスマホに叩き込んでる時点で、感傷的なんだ。許してくれ。
だからひとより孤独になりやすいのに、孤独に敏感で、感傷的になってしまい、感傷的な俺をひとは受容しない。感情のバグ、正のフィードバック。
俺を孤独から掬い上げるには、俺にとって正しい環境が要るんだと思った。
俺を孤独にする環境の中では俺は孤独だし、俺を孤独にしない環境の中では俺は孤独じゃない。
バグのせいで、俺は自分を自分で孤独から脱出させるコマンドが死んでいる。周りのひとがそれをなんなくこなすのは、この上なく妬ましい。
妬ましいと思う俺を俺はそとから見つめ、またひとつ増えたバグを夜な夜な育てるのだ、俺は。
思えば、中学や高校では孤独が俺を苛むことをしなかった。そこには慈愛だけがあった。
まさしく、がら空きの車内を埋め尽くす轟音の奔流と同じく。
大学とは終止、自助の場であると痛感している(もしかしたら、この先の社会もそうなのかもしれない。目眩がするようだ)。
痛感しただけ、バグは増えていく。
自助を欠いた俺の前にもあとにも、さめざめと白けきった砂漠。
こんなはずじゃ、とは思わなかったが、こんなものか、とは思った。
身の振り方を確認する自分は、滑稽なひとり、俺が一番なりたくない奴の声が聞こえた。
ぐるぐると蠢くは思考。その次も思考。未来はないが、後もない。
バグまみれの社会不適合者は、正しい夜明けを見るか。
昨日の午前8時、見た。
あえて言葉にしたいから言葉にすれば、煮え切らない具材を流し込む型が自分のなかで設定されたような居心地のよさ、仄かな暖気と脳に流れ込むカフェインがそれを贈ってくれたのか、2週間早い誕生日プレゼントを。
いい小説が簡潔は結末を要求するように、傍目複雑な問題は存外かちわるのは容易い。
孤独を制するか。
孤独は、正しくは許容外の孤独なんだろう。
100から100を摂取していたのがすこし前の俺ならば、いまの俺は1000から100を摂取していたに過ぎないと、気付きがあった(正確には92くらいで、100にするのはもう少し努力が必要そうだ)。
部活の同輩たちも、サークルの先輩も、同じ講義をとってる彼も、バイト先の上司も、整体師のオッサンも、TLを流れることばたちも、横浜にいる家族や級友も、各々が部分であり、環境を象る一片で、それぞれがかさなりあって、正しい環境に成るのだと、気付きがあった。そしてそのなかでいかに気安く動き回れるかが、INFPの大学生にとっては肝心な要件だ。
ただただ欲張りすぎていたんだなあ、だから虚しくなる、そう思った。
そう気付けば、思いを飛ばす余裕も出てくる。
ペンをとる日は近い、なんて嘯けば、口角は上がるというものである。