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その力は零にも無限にもなれるーー「マジンガーZ INFINITY」

 レイザ?そこの角を左に走って行きましたよ。

 

事実として、僕は未成年だ。そしてこの事実は僕が「マジンガーZ INFINITY」を観ることの何の枷にもならない。age50〜くらいのおじさんたちに混じって「INFINITY」で涙を流すことも、その感想をネットの縄張りに叩きつけることも、年齢から何の束縛も受けていないのだ。

 

この映画を見る層として、僕のような「マジンガーのことについてはそこそこ詳しいが、当時へ想いを馳せる訳ではない若者」は比較的珍しいのではないかと思うので、この仮定を踏まえてこの映画の話をしてみたい。

 

この映画のキモは大胆なアクションというより、その逆、緻密な構成である。本作品の舞台はテレビ版の10年後。もちろん現実ではテレビのマジンガーから30年以上経っている。正統な続編ということで意識せざるを得ないのだが、最初に水木一郎のOPが流れた瞬間、「ああ、これは昔を知っている人向けなのだ」と感じてしまう。それは良い意味でも悪い意味でも、だ。

 

次に偉大なる勇者、グレートマジンガーが登場し、必殺武器の乱舞!最新鋭のCGで描かれたアクションシーンは、重厚感を犠牲に、メリハリのついた見応えのある仕上がりになっている。ストーリー的にもファンサービス的にも機械獣が少数で襲ってくるわけにはいかないのでこれで良かったのだと思う。必殺技を叫ぶ意味のなさといったらたまらなくアツい。随所でで手描きのカットもあり、凝り固まった思想が無ければ楽しんで見られるだろう。

 

このように冒頭にかけて描かれるのはある種の懐古的なエンターテイメントである。元祖スーパーロボット、俺たちのマジンガーが帰ってきた!その感動だけでひとしおなのだ。

 

そして10年後という時間が描写される。ジュンの妊娠、甲児とさやかの立場、ロボット開発事情。ここは言わば話を駆動する装置で、伏線がいくつも散りばめられる。この伏線に沿って後半に一つ「裏切り」が放たれるのだ。

 

後半に行くにつれて「昔の方が良かったのではないか」という文言がうっすらと浮かび上がる。自由に機械を駆り戦いに明け暮れられた、初々しい少年少女でいられたあの頃の方が。そこへ逆らうように投げられる牢獄でのジュンの台詞は個人的に一番のクライマックスではないかと思う。

 

「あの頃の方が良かったーーなんて死んでも言わない」

 

佳境へ入る前に少し脱線しよう。ある時期、僕は「ああマジンガーやゲッターの新作映像をやらないかなあ」というしょーもない嘆きを抱えていたほどだ。思えば少し前はまさにリアルロボット全盛期。というよりスーパーロボットを作るという意味合いが失われていった時代だったのだと思う。

 

注意しておくと、これから言うリアルロボットとスーパーロボットというのは作劇上の話である。未知のエネルギー、未知の巨大な敵。或いは、既知の技術、人の乗る敵機。大雑把な区別である。

 

さて、一般的なイメージではーーといってもこの界隈がどこまで一般的なのかはわからないがーーマジンガーZとは正にスーパーロボットの代名詞。ホバーパイルダーへスーパーパイロット・兜甲児が乗り込み、そのままマジンガーZへパイルダーオン!無敵の超合金Zが人の頭脳と合体して一騎当千の鉄の城。ロケットパンチにドリルミサイル、光子力ビーム、アイアンカッタールストハリケーン、トドメのブレストファイヤーで恐るべき機械獣を原子に打ち溶かす!

 

言ってしまえばそれまで、というかそこに人を感じられなかったのかもしれない。ガンダムが代表するような、「兵器」としてのロボット。「ロボット」でしかないロボットよりも、「兵器」としてのロボットなら、ずっと身近でミリタリーなネタも引っ張ってきやすい。光子力、ゲッター線よりも一般化されたミノフスキー粒子の方が人間関係を主軸にしたドラマにそぐうのだろう。人が扱える技術があってこそ、初めて人は人と向き合える。ブラックボックスはそれだけで存在感を放ってしまうのだ。

 

とにかくスーパーロボットが下火になっているのは確実で、その結果なのかリアルロボットたちもスペック上はどんどんスーパーになっていく(そういうものを全部ひっくるめて時代の要請なのだろうけど)。

 

ガンダムの戦闘シーンというのは異質で、各々が主義主張を叫び、戦闘が行われながら対話も同時に発生する。人の対話を楽しむというのはドラマチックで、きっと全ての創作物に通ずるのだろう。リアルロボットの作劇は「王道」なのだ。

 

つまるところ、創るという観点において、スーパーロボットというのはやり辛い。あくまで私見だが、現代でも力の入っていないリアルはあっても入っていないスーパーというのはあまり見ない。スーパーロボットというのは一大プロジェクトなのだと思う。

 

今回のINFINITYも一大プロジェクトだ。久しぶりの兜甲児マジンガーで、しかもテレビ版の続編。当時の世代へ求心しておきながら、そこで敢えて「昔の方が良かったーーなんて死んでも言わない」意味。言うに及ばず、現在の肯定こそがこの映画の最大のメッセージだからだ。

 

「変身」も「操縦」も「搭乗」も。戦後から続く男の子向けの文化はすべからく、自分ではない何かへ変貌することで暴力を許可されるという構図をとっている。暴力とはまさに「父」であり、仮初の身体にのみ宿る成熟の証であった。

 

マジンガーにとっての「昔」とは輝かしい絶頂期でもあるが、同時に、虚構の暴力に耽溺した時代でもあったはずだ。「昔」ーーあの頃に比べれば、あの頃少年だった人たちはほとんど例外無く息苦しさを感じているに違いない。それはこの映画の兜甲児たちも同じだ。世界を救った英雄ですら、現状のシステムに縛られ、周囲が暴力を許可しない。鉄也のように軍属となり束縛の対象となるか、甲児のように政治から離れて力を失うか、プロセスは真逆でも根底は等しく「父」の喪失による永遠のモラトリアムなのだ。

 

ドクターヘルという究極の終焉に対してしか力を発揮できない甲児は少年のまま時が止まっていると言わざるを得ない。さやかは自立し、ジュンは母となることを選んでいるのから見ると、彼はなんという体たらくだろうか。決して英雄=「父」ではなかったボスこそが一番地に足をつけているというのは皮肉であり事実である。しかし誰が一番、あの頃テレビのマジンガーZにかじりついていた少年たちに近いのかといえば、これまた間違いなく甲児なのだ。哀愁とともに去来するのは、自分にはもっと可能性があったのではないかという嘆きだろう。

 

甲児は最終的に「INFINITY」との対峙を行う。まさに「無限の可能性」であり、甲児は戦いの中ですら無力な自身を自覚したうえで、戦いの果てにあると信じていた「父」たる自分の喪失に気づいたうえで「ああすればよかった」という嘆きに立ち向かわなくてはならないのだ。

 

先程述べた通り、今回提示されるメッセージは現在の肯定である。甲児=観客はこの現実を前にしてどう肯定すれば良いのか?このように、ありきたりな構造に観客を丁寧に組み込むことで、甲児は紛れもなく主人公たり得ているのだ。

 

リサという新規キャラクターは、徹底して無垢な少女として描かれた。それは甲児に次世代というフックを創り出し、「INFINITY」を否定させるための最後の仕掛けだ。もしも、アンドロイドであるリサが甲児たちを見て人を学んでいく様が、観客たちの中で成長する子どもと合致しなければ、最後の「INFINITY」への勝利は御都合主義と化してしまう。ターゲットを絞り、丁寧に構造を醸成させたことでようやくこの物語は説得力を持てる。「マジンガーZ」に内包された、「マジンガーZを見ていた人々」という概念をモチーフに巧妙に作られた、難産の伺えるスーパーロボットアニメ。今スーパーロボットを作る時、使い古された「父」という概念を扱わなくてはならないことがわかるだろう。最近では、ダーリン・イン・ザ・フランキスは初っ端からそういった成分がこれでもかというくらい濃厚に詰められた期待の持てる作品だ。

 

奇しくもマジンガーZEROというのが存在していて、詳細は(疲れたので)省くが、可能性を開いた「INFINITY」に対して、可能性を閉ざす「ZERO」と言える。これも「マジンガーZ」に内包された様々な概念をメタ的に扱った素晴らしい作品なのだが、マジンガー以外の存在を許さないZEROも原理的には同じ存在だ。(対極に位置するものは得てして源流を同じくする)

 

「父」でいるために、マジンガーが唯一無二絶対の最強の存在として君臨する世界のみを存在させる。駆動させているのはINFINITYと同じくかつての栄華への未練である。暴走しまZEROの倒し方もINFINITY同様、現在の肯定と読み換えられるが、鍵となっているのはやはり可能性である。

 

昔のマジンガーも確かに凄かった。しかしあの頃に気ままに振る舞えた「父」に縋っては、その後に続く可能性が消えてしまう。どう仮初の「父」から抜け出すか?未だ正解を見つけられない大人たちが、今はいつか見つかる可能性に託すしかない。それまで彼らにできるのは虚構に塗れた現在も(もちろん過去も)肯定し続けることである。過去を神格化しINFINITYの夢に逃避するか、現在のみに拘泥し可能性をZEROとするかーーそのどちらでもなく自身の生きてきた時代を肯定しながら否定し、せめて未来だけは肯定しなければ、無意味であるとわかっているこの世界から本当に意味が消えてしまうのだ。数字のうち、始まらない「ZERO」、終わらない「INFINITY」でなく、マジンガーは限りあるアルファベットの終わり=終わらせるための「Z」でなくてはならない。

 

偽りの身体というのもまだまだ捨てたものではなくて、そこに段階があるだけで無限の可能性があるのだと思う。役者と役という距離が、現実とキャンパスという距離が、芸術に無限の可能性を生むように、ロボットがあってパイロットがいる限りそこには無限のドラマが生み出せるはずだと僕は信じている。リアルロボットは距離を縮め、ロボットによる擬似的な人間ドラマを再現する。スーパーロボットには独自の方法論があるはずで、ロボットへの距離があるからこそ人は偽りの力を得て神にも悪魔にもなれる。それは繰り返しでもあり、夢から抜け出そうとしているエヴァンゲリオンのような作品もあるが、それはそれとして未来を信じるという自虐的な希望が、この映画に演奏されている。