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滅多に映画みない俺がわざわざ立川まで映画みにいく8つの理由

理由1~6

立川シネマシティという映画館でのみ上映される、専用のヤバヤバ音響装置を使用した極上爆音上映(極爆)の音がやばすぎるから!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!もはやそういうアトラクションかってくらいビリビリするから(今日はゴジラをみたけど、ゴジラが吼える度に和太鼓と同じ衝撃を感じた)!!!!!!!!!!!!

大阪に住んでるから滅多に行けないけど

だから俺は滅多に映画をみない、いやみれない、みたくない

 

理由7

極爆に関しては特に映画好きが集まるからマナーがいい

理由8

立川って自然が多くていい街ですね~~

 

https://cinemacity.co.jp/

ありがとう、シネマシティ…………

おわり

【恥も外聞もなく】平成の邦楽ロック名盤三選

こんにちは、皆さん音楽聴いてますか?

俺は聴いてます。

バイト終わってマクドTwitterみてたら平成のコンテンツを振り返るエントリがTLに散見されたから触発されて書きます。日付が変わる前に頑張って書いたからミスは多目に見てください。

ごめんなさい、遅刻しました。

今回は国内のロックバンドに絞ります。あと、あくまで俺の好みのもとです。

 

COALTAR OF THE DEEPERS『COME OVER TO THE DEEPEND』(2000年)

 

COME OVER TO THE DEEPEND

COME OVER TO THE DEEPEND

 

 

ギターがいちばんかっこいいとアルバムって何?と聞かれたら間違いなくこれを挙げる。このアルバムには、オルタナ、サイケ、ハードコア、シューゲイザーはてはデスメタルまで、ギターがかっこいい音楽が全部詰め込まれてて、すべてが破綻なくひとつのアルバムとしてパッケージングされた凄みがある。ドラムも全編に渡ってアホみたいなテクで乾いたスネアが響き渡ってる、最高じゃん。『TASTE』から『C.O.T.D』の展開とか凄すぎて、凄すぎて溜め息が止まらない。言わずもがな『C.O.T.D』がいちばんすきで、俺はこの曲を再生する度にあのむせ返るような熱気のアスファルトと頭上には入道雲が浮かぶ真夏を想起する、なぜか。

 

ゆらゆら帝国『空洞です』(2007年)

 

空洞です 

空洞です 

 

 

邦楽ロックというジャンルはあまりにも硬質で、簡単にはパラダイムを越えられないのだけれど、このバンド、このアルバムだけはロックとかポップとか邦楽とか洋楽とかの枠組みをぶっ壊して、ただそこに「めちゃくちゃやばいいい音楽」がある。「完成してしまった」って世界一かっこいい解散の理由だ。俺も完成して~~

この音楽をサイケって決めちゃうのは簡単だけど、それって勿体無くないすか?っていう

 

ヒトリエ『HOWLS』(2019年)

 

HOWLS (特典なし)

HOWLS (特典なし)

 

 

あの日から俺はこのバンドを一度も聴いてなかったのだけれど、久しぶりに再生したら案外不用意な感情はなかった。そんなことはどうでもよくて、このアルバムはひとりの音楽家がたどり着いた境地のひとつだと俺は断じることができる。ナンバガ以来のオルタナの系譜を丁寧ていね丁寧になぞりながらも自身の発明をふんだんに折り込みそのうえでその発明に寄りかかることなく最新の邦楽ロックの像を明確に提示したのがこの傑作で、邦ロック特有の固さとコンテンポラリーなポップミュージックが見事に融合されてて、このバンドの、未来がとても楽しみだったんだけど、なあ。

 

おわりに

俺が納得できる選び方をしたら大衆向けのものなのか個人的なものなのかよくわからなくなってしまった。でも誰か一人が選んだオススメ◯◯何選!ってこんなもんじゃないすか

こんなかだとC.O.T.Dの知名度が低い気がするんですけど明らかに評価に見合ってないクオリティなんで全員が聴いたほうがいいと思う、ほんとに

 

寝ても醒めても

ここ2日くらいずっと考えてたことがようやくわかった気がするから、これを書く。

たぶんこの話はもうこれ以上蒸し返すことはないと思う(もっと普遍的なはなしとして再考することはあるかもしれないけれど)。

ずっと考えてたこととは、俺が言った「書き手が媚びる」とはどういうことかなんだけれど、それがどういうことかようやくわかった気がする。自分の中にあったことばと考えがやっと一致した。

「書き手が媚びる」とは、つまり「書きたいこと」を「本当の声で(だけで)」「書かない」ことなんだと思う。

「本当の声」というのは俺のことば(俺のことばというにはあまりに普遍的かもしれないけれど)で、自分にとって心地よい、違和感のないことばのこと。ものすごく抽象的で申し訳ないけれど、そうとしか言いようがない気がする。でも、本当の声でものを書きたい、という思いはすべての書き手に、いやすべての表現者にとって共通の願いじゃなかろうか。俺はこの本当の声を自分の中ですごく大事にしていて、本当の声でギュッと凝縮したような文章を書きたいなあ、と思う。

だがしかし、本当の声だけで表現することはとてつもなく困難なんだと思う。思う、というか困難だ。だから俺たちは本当の声たちを繋ぐように、別のことばを継ぎ足して、形にする。別のことばを継ぎ足せば継ぎ足すほど、その表現はあらゆる人にとって解りやすく、共感できるものになるのだろう、なぜなら、本当の声はすべての人にとってまるっきり違うから。本当の声をひとびとに伝えるために俺たちは本当の声を厳重に梱包して、誘導灯をいくつも焚いて、表現を構築する。

恐らくほぼすべての表現者がその手順を踏んでる。つまり俺のことばに従えばほぼすべての表現者が媚びてる(何に媚びてる?必ずしも読者にではないはずで、書くという行為自体に媚びてるのかもしれない。ただそれが普通なんだ、なぜなら表現とは人に伝えることが前提なんだから。でも。でも俺は)。でも俺はむき出しの本当の声だけで表現することを選んだ(この前の小説が解りづらいと思われた原因はまさしくここにある)。

それはなんでかっていうと村上龍っていうオッサンのせいなんだけど、そのはなしは置いておこう。

で、話をさらにややこしくする原因は、「書きたいこと」が人によって面白いくらいばらばらなことだと思う。「書きたいこと」とはつまり書く目的や立場、目標、それから紡ぎ出された表現のこと。俺はこの書きたいことがまだ掴みきれていなくて、ふわふわ浮いているからこの話が難解に思えたり、他人のことばが針にみえてしまったのかもしれない。

結局、書きたいことという土台がしっかりしていて、本当の声をうまく伝達できる表現があって、というのが表現者がふつうなすべき事柄。俺はその土台すらあやふやで、本当の声の伝達を全くせずに本当の声だけで殴りかかってくるやべ~奴だということだ。

たぶんこの土台を固めに固めて、むき出しの本当の声でぶん殴ってきたのが村上龍で、俺は村上龍にぶん殴られた慣性でいまも文章を書いている。土台、固めてえな~~

まとまりのない文章だな。そういうとこやぞ

土台固めるためにはもっと本を読んだりするのが大事だと思う、GWに本読むぞ~~

 

 

まだ死にたくはないな、と

たとえば、俺は飛行機で酔い止め薬を飲むような男に

なってしまった。

先週末俺は北海道に完全なる遊びの目的のもと行ってきたのだけれど、帰りの飛行機でなんとなく鞄からトラベルミンを出して飲んだ。なんとなく揺れるな~と。

その時俺のなかで、飛行機に対して抱いていた少年さながらのワクワクだったり、旅の帰り特有のセンチメンタルさは霧散してしまったと思った。

俺がトラベルミンを飲んだ瞬間から飛行機は単なる移動手段に落ちぶれた。言うなれば毎朝揺られる阪急と同じ。

帰り道、寄り道したスーパー銭湯のサウナでそう気づいた。クソあちいサウナなのに少し寒気がした気がした。

こうして死んでいく(死への準備をしている)のかな、といまになって思う。あらゆるものに対して新鮮な感動や思いの発露を失ったときが死ぬべきときなのかな、と。

やべえ才能のバンドの新曲だったり、ふと見上げた空にクッソ鮮やかな月があったり、降り始めた雨に足早になるなか鼻腔をくすぐる埃のにおいとかにさ、俺はいつか何も思わなくなるのだろうか。

そうなったら俺は死ぬな。こうして文章を書けなくなるのだから。生活を消費だと思ったら人はひととして死ぬ。なあ、そうだろ生活を消費だと思って生きている大人。確かに俺たちは消費のなかで生きているのかもしれないけれど、そのなかで色々な鮮やかな発見をすることで生活は消費から遠ざかってゆくのだと思う。だけれども俺もそんな大人に少しずつ近づいているのかな。たとえば飛行機でトラベルミンを飲むみたく、さ。

こうして何だかんだ四年もblogをやれてて普通に俺は嬉しい。こうして思いを吐露できる環境があって、それを使っているうちは俺はまだまだ自分が子供のままでいられるようなきがする。俺は俺が子供のままでいる限り、新鮮な感動を味わえるのだから。

酔っぱらってないと素直に文章を書けないなあ。これが大人になることか?

 

 

 

 

 

 

 

祭囃子を恨む

午前11時、祭囃子が聴こえて目を覚ます。ああ、きょうは桜祭りだったなあ。3月の終わりの桜祭り、少し早いだろう。きのう整体師のオッサンが言っていたのを思い出した。きょうは雨だというのに外はあまりにも喧騒が騒がしい、祭囃子に遺伝子的に刻み込まれた高揚を一瞬でかきけす嫌悪感。あまりにも騒がしい。

俺の住んでるアパートはアーケードつきの商店街のど真ん中にある、開け放しの窓(昨晩はおどろくほどに暖かった)からいつもより遥かに多い人通りを窓から眺めるが、あまりの五月蝿さに辟易し窓をぴしゃりと閉じる。閉じるもなお五月蝿い。うるさい。

折角の二連休で、きょうは暗くなるまで寝て、朝までやってるファミレスで死ぬほど溜まってる書籍(積ん読)を読もうと思ってたのになあ。中断された睡眠ほど取り返しがたく、恨みがましいものはない。開いていた窓から侵入した花粉でくしゃみを二回した。くしゃみをしても独り、眼下には溢れんばかりの人。

二日酔いの脳は午前中まったくや機能しない。きのうは結構飲んでしまった。4連勤のあとだから仕方がないかもしれない。ガンガンと反響する脳を振り回してノートパソコンを起動。これは染み付いた動作であり二日酔いの影響はない、そしていつもの癖で自分のブログを開く。この零細も零細のブログのアクセス数などたかが知れているが確認せずにはいられないこの自己顕示欲が我ながら恐ろしくもある。書いた覚えのない記事。このブログは何人かで書かれてて(いまは二人)、書いた覚えのない記事があるのがすごく嬉しい。もう一人の執筆者は俺よりもよく物事を俯瞰して捉えられているなあ、といつも思う。思って、少し嫉む。でもこういった感情の機微を大事にしていきたいとも思う。

平坦な日々のなかで少しの触れ幅の中を錯綜する感情だけでも、自分にとっては価値のあるものだと最近になって気づいた。最近になって、小説を少しずつ(リハビリのように)書いているのだけど、やはり執筆の軸にあるものは自分の経験や体験で、それらにたいしていかにアンテナを張れているかというのが表現力の如何に関わるのかなあ、などと。音楽を聴いたり、アルバイトで上司に褒められたり、叱られたり、そういった出来事の一つ一つは自分にしかできない経験や体験だなあ、と先週あたりに気づいた。

例えばいまのこの思考も文章にして保存すれば自分の、もしかしたら他者の糧になるかもしれない。そうだとしたら嬉しい。嬉しいし、もっとこんなかたちの記事も書いていいと思う。

祭囃子と、人々の喧騒が聴こえて思考はぶつ切りになる。散文的ながら少しの纏まりを見せつつあった思考を中断させた祭囃子を恨もう。いやその恨みさえも文章にしよう。ブログの編集画面を開いた。