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「五等分の花嫁」はすごいんじゃないか?

  特撮やロボットアニメとかの話をずっとしてると「俺はこの分野から外に飛び出さないんじゃないか?」と不安になることがある人です。

 

その不安が最高潮になると、コンビニやBOOKOFFで漫画を買ったり、TSUTAYAでCDやDVDをレンタルします。前評判無しに、その場で買うものを決める。そんな感じで購入したのが「五等分の花嫁」です。

 

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正直、精神状態としてはすごく疲れていて。「ああ、五人もお嫁さんがいたらなあ…」という危なげなマインドでコンビニにあった三巻を購入しました。一巻から揃えようとか考えると機を逃すので基本あるものは即購入です。

 

中高時代の昔話をすると、はっきり言って「アニメ」というくくりでいえば男子校だからすごく普及してましたね。運動部も文化部も、アニメかアイドルというものには異様な熱気と、それを憚らない共通の空気というものがあって。

 

僕もチマチマ観てました。というか入口はむしろそっちで、「氷菓」とか「らき☆すた」とか「バカテス」を録画して観てました。ただ、好みというものは先鋭化されていくようで、同時に観るロボットアニメに傾いていく。卒業前にはそれこそ「ガンダムZZ」をDVDで見続けて、「ユーフォニアム」なんかはなんとやら、と言った感じで。

 

最初に三巻を読んだ感想も、概ね似たようなものでした。気楽に、ストレスフリーに、女の子たちと仲良くなっていく。喜怒哀楽の一番最後を摂取していくだけだなって思いました。(後から思えば三巻から読んでるんだから当然過ぎる)それこそ「いちご100%」だとか「ToLOVEる」と違って主人公が女の子に冷たいあたりがフラットで受けてるのかな、と。ただそれにも増して引っかかったのは五つ子の区別がつかないという設定。これに違和感があったので割と勝手に見切りをつけようとしてました。結局萌えキャラなんて区別がつかないし、その上で作中でも区別されなかったらもうこれ以上面白くなることも無いだろうし。帰りにぼちぼち揃えて色々終わったら売ろう、そうして買っていくうちにふと違和感があったんです。

 

 

そんなこと、わかってるんじゃないか?

 

 

ヒロインはそれぞれ問題を抱えてるんですよ。これはこのジャンルにおいては当たり前なんですけど、それとは別に「五つ子」は共通で抱えている悩みがある。それが「区別されてはいけない」ということ。区別できない、記号の塊なんて揶揄されるヒロインたちは作中でも本質的には区別されていないんです。話し方や特徴的なアクセサリーでのみ認識されている節がある。段々それが明らかになる構成が見事。

 

この仕掛けがドラマにはもちろん、五つ子の中での姉妹関係にも関わっている。どこまで意識的なのかはわかりませんが、これからの展開が気になって仕方なく、発売日に最新刊を買いに行くようになってしまった。最初に舐めていたぶん、そのギャップで心を掴まれてしまった。誰と結ばれるんだろうかがマジでわからなくて、悶々とする日々です。個人的最有力候補は4。

ナンバーガールが復活した

ナンバーガールが復活した。

今さらになってそんな感慨が爆発してしまって夜中にこれを書いている。

正直いって俺はナンバーガールの世代ではない。その残滓を啜るキッズだよ、お前らの嫌いな。ただ2000年代以降の邦楽ロックを聴いてきた世代はすべてナンバーガールの世代とひと括りにしてしまってもいいのではないかとも思う。2019年の音を聴いたか、まだテレキャスかき鳴らしてメガネが叫んでるぞ。邦楽ロックがナンバーガール以降ひとつも進歩していないなんて大口を叩いて憚らない、俺は。ナンバーガールはそれほどまでにエポックメイキングなロックバンドであった。

ナンバーガールが復活して、すべてのアルバムを聴き直したが、やはり邦楽ロックはナンバーガールから1歩も。ナムヘビーメタリックがリリースされた2002年に邦楽ロックは死んだ。いや代謝機構が機能不全に陥った(じゃあザゼンの向井は何なんだ、彼は最早オルタナを超越したプログレ、ダブ、向井秀徳の脳内に蔓延る音楽の凝縮を体現した音楽集団)。まだすがるか。お前らは言うが、邦楽ロックに狂わされたオタクはすがる。紅白に15秒でた向井秀徳でも狂うぞ、俺たちは。平成の終わり、rockかpopかわからん音楽聴いててもそれを通してナンバーガールを感じてるんだ、そして涙流す。忘れられないし、忘れたくもない。

 

今年の夏、俺は北海道へ行く。何がなんでも行く。北海道へ行けない奴等は俺を羨め。俺は蝦夷の大地で、刺すような青空のした透明少女を聴くぞ。聴いて、俺の通ってきた音楽は正解だったと絶叫するぞ。俺は極極に集中力を高める必要がある。

以上。

 

そこそこのファンから見たルルーシュが復活した感想

こんにちは。普通にブログを書いた人です。

 

好きなアニメを挙げろ、と言われて僕が挙げるとすると「無限のリヴァイアス」「スクライド」「ガン×ソード」と、谷口悟朗監督作品が並ぶくらいには普通に著しく好きです。監督としてなら一番好きなのかも。ただ、別に「ワンピース」まで遡るとかそういうレベルのファンじゃないので、悪しからず。

 

去る日、「復活のルルーシュ」をみてきました。これでもかというくらいファン向けの要素を詰め込みつつ、ジルクスタンという敵を軸にまとめた作品。以降はネタバレはあまりありませんが、一応注意。

 

ジルクスタンの姉弟ルルーシュとナナリーの関係の写し鏡みたいな存在で、いくらでも絡められそうなのに一切触れられないんですよね。あの国の境遇の描写も最小限で、鑑賞後に思い出すスパイスくらいの比重。

 

姉シャムナはどうすれば国を救えたのかー、とか。弟シャリオのKMF操作にはどんなシステムがあったのかー、とか。指示を待たれるルルーシュと予知を求められるシャムナの責任とか。考えれば説明だけで時間を裂けそうだけど、それは計算の上削られたんだと思います。

 

この映画は非常に計算の上で作られていると思います。本気で『反逆』の続編をやると尺が圧倒的に足りなくなる。この映画では何が重要なのか?言うまでもなくファンへのサービスが第一だったのでしょう。

 

映画を観る前にずっと頭に残っていたのは最新の『劇場版 遊戯王』。あれも『コードギアス』に似た部分があって、ファンが続編における主人公(この場合闇遊戯)の復活について議論していましたね。どちらも言うなれば消えて綺麗に終わったわけですから、復活するとなるとそれは冷静でいられない。まあ、ルルーシュはそもそも生存していたか否かでずっと議論はされてきましたが。

 

遊戯王』は蓋を開けてみれば、序盤にフェイクを混ぜつつ、肝心の「復活」は最後の最後に、色んなファンへ対応した絶妙な「復活」を見せてきた。あれは本当に綺麗だったと思います。『遊戯王』にしかできない、まさに名シーン。

 

一方で『ギアス』は、そういった情緒はない。正直そっちの方がドラマチックだとは思うんです。今回の最初のルルーシュと他キャラとの邂逅は割と偶発的で、ドラマ性に欠ける部分はあった。ただ、やはり逆説的に今回見せたかったのはファンサービス、ルルーシュと他キャラの絡みだったんじゃないかと。僕も全容を把握できないレベルで外伝に至るまでキャラクターが出ていましたね。

 

監督のインタビューに少し目を通すと、今回の『ギアス』はやはりシリーズものとしての土台作りの意図があって、「復活のルルーシュ」というか「ルルーシュの復活」がまず最初にあったんじゃないでしょうか。それを前提にした肉付けが、ファンサービスという要素。そしてその中でも重要だったのはC.C.との約束と関係性の決着。2時間で描くための取捨選択が非常にされたんじゃないかなと邪推してしまいます。

 

ファンサービスは物語作りにも反映されていて、ルルーシュ復活時の煽りと決戦時の頭脳戦の勢いが僕は大好きでした。ギアスらしさというか、傲慢な貴族を煽って自滅させる箇所は気持ち悪いくらいニヤニヤしてしまう。

 

そして、最終決戦のギアス対ギアス。『ギアス』が人気アニメになったのは、ロボットだけではなくギアスによる能力バトルもあることによる、受け皿の広さもあるでしょう。ロボ好きとしては世知辛いけれども。

 

さっきシリーズの土台作りなんて言いましたが、僕は『アキト』を全部見たんですよ。CGのバトルは最高峰だと今でも思ってるし、雰囲気もとても好きなのですが、いかんせん舌戦だとか能力バトルだとか結構『ルルーシュ』の受けた要因が抜けているのが痛いなとも感じていました。これからシリーズが続くかわからないですが、その再確認のようなものなのかも。

 

ぶっちゃけルルーシュのギアスもチートなので、相手にも相応のチートが求められるのですが、今回もなかなか。未来を知った上でやり直せるのはループもののそれなので実にあれも主人公格の能力です。ルルーシュも「早くない?」と思うくらいあっという間に打ちのめされてしまいますが、復帰後にひたすらルルーシュがハイテンションで打ち破るカタルシスルルーシュのあの頭の良さは破茶滅茶なチートなんですけど、演出も相まって勢いが気持ちよすぎる。

 

野暮ですが、あのギアスの良いところは限られた尺の中で味方の快進撃と苦戦を同時に見せられるところですね。カレンとスザクの新KMF(?)はシャムナのギアスじゃないと充分活躍させられなかったかも。

 

あと観てて懐かしさを感じたのはルルーシュのダークヒーローっぷり。一般人にギアスをかけるの、完全に人道に悖っているんですけど、そういうのって娯楽って感じしますね。デスノートとかが流行ったのも、「悪人の名前をノートに書いて裁く」ってとてつもない快感だったってのもあるでしょう。

 

ちょっと逸れますけど、ああいう「大事なこと」と「大事じゃないこと」が割とはっきり決まってる主人公は魅力的ですよね。ルルーシュの場合は「めちゃくちゃ大事なこと」があると書いた方が正しいのか。ルルーシュは言うまでもなくナナリーですけど、それ以外のことは二の次。前述の破壊の快感に近いものがあるというか、普段気にしてしまう倫理や人道をいざという時無視していく。初めからそんなものはないんだとばかりに邁進する姿は主人公然としてるな、と。

 

自分もつらつら書いてきましたが、普通に『ギアス』が好きだったので、ロボット、能力バトル、懐かしいキャラたちの活躍が観れてめっちゃ興奮してました。

 

あとは最後のアレですね、全編通してC.C.がもう一人の主人公って感じねした。この映画で僕はC.C.をかなり好きになれたし、元から好きだった人とかはもう感涙ものなんじゃないかなぁ。

 

最大公約数っていうとちょっと冷たい印象になってしまうけど、今の時代「公式」でありながらファンサービスができるのは非常に気を使っているし、ありがたいなとも思います。ギアスらしさの集合ということは、ギアスの面白さが2時間にぎゅうぎゅうに詰まっているということでもありますし。

 

 

 

 

なぜオタクは伏線回収が好きなのか

こんにちは。普通にブログを書く人です。久し振りに何か感想でも書こうと思ったのですが、そのイントロとして一つ。

 

オタクってなにかと伏線に拘るねって話です。

 

ステレオタイプの「オタク」という人の主食は、やっぱり未だにアニメ・マンガ・ゲームだと思うんです。舞台やYouTuberとかも一定の需要があるけれど、やっぱり主戦場ではないんじゃないかな。

 

何にせよ、アニメというのは13話だったり26話だったりして。時間にすると6時間とか10時間とか、けっこう時間使うわけです、これ。

一年やる特撮や児童向けアニメだと二十とウン時間を、リアルタイムで追っかけたりTSUTAYA(古い?)や配信サービスで一気に観る。スピンオフやら劇場版も欠かさず観て…この体験に対して、映画ってとんでもないコストパフォーマンスなんですよね。軽ければ90分、重くても3時間くらい。

 

漫画もそう。週刊漫画とかだとそもそも終わらない。ジャンプの人気マンガのアニメなんてするともうそりゃすごいわけです。マンガを読むのにかかる時間は人それぞれですが、そもそも終わらないコンテンツというのは、もう、そうそうない。

 

やっぱり完成品としてパッケージされて出てくる映画と、「オタク」コンテンツとでは、消費カロリーが違う。で、この形態ってどっちかと言うとかなり新しい。手塚治虫のマンガとか水戸黄門とかを想像するとわかりやすいと思うんですけど、ちょっと前に遡ると物語っていうのは一つ一つで完結するのが当たり前だったんですよ。

 

商業的にも、文化的にも、スクリーンからテレビへ時代は移った。今は配信サービスとかもあってスマホで見る時代かな。みんなで同じものを見る→みんなで選んで見る→一人一人選んで見るって具合に。

 

終わらないコンテンツにおいて優先されるのは、より短期間で消費者に与える利益です。売れない名作アニメとかって、最初から最後まで構成がしっかりしてて、序盤で張られた伏線が終盤で活きてくる。でも宣伝とか一話のヒキとか、売れるアニメに比べるとそこらへんが弱い。

 

やっぱり人を惹きつけるには短いスパンでガンガン盛り上げていかなきゃならないと思うんです。そうしなきゃアニメは視聴を切られるし、今はマンガもゲームも主戦場は基本無料に移り変わってるから辛いんじゃないかと。ただ、ここらへんのコンテンツの選択肢の多さは簡単に論じれないもんですね。めんどくさいけど、でも本質はまだ変わってないと思います。

 

結局、どだいおかしいんじゃないかと。短いスパンで盛り上げなきゃ売れない。そんな物語づくりの中で、伏線とか構成とか言い出すなら、名作映画とか観てればそこから外れるわけないんですよね。

 

でも、リアルタイムの熱っていうのはどうしようもなく存在するし、極論を言えばオタクって呼ばれるような人が求めてるのは作品の質なんかより固有の体験なんじゃないかなと思うわけですよ。これも長くなるから長々と話したくはないけれど、今大事なのは「自分のタイムラインを作ること」だってことです。

 

本編、スピンオフ、実写、舞台、二次創作……コンテンツそのものを追っかける体験。きっかけはやっぱり本編の質だと思いますけど、シリーズものだとそれすら担保に入れてマルチメディアで同時に展開したりする。

 

結局作り手も受け手も「盛り上がれればいい」んだけど、だからこそ伏線を求めちゃうんですよね。だって伏線回収って雑に細かく盛り上がるコンテンツから一番対極にあるものだから。

 

構成の完成度を犠牲にしてたはずなのに、序盤の伏線が終盤に効いてくるなら、もう無敵になったような錯覚が生まれる。しょせん一時の盛り上がりと見ていたものが伏線となる。ばらばらの星が星座となっていくように繋がる、無意味なものが有意義なものになる、夢物語が現実になる感覚。感動して鳥肌が立つ、みたいな話ではなく「なるほど、ああ、それがくるのか、うあ〜〜〜〜」って頭を抱えながらニヤけちゃう感じ。書いててキモいなとも思いますがとにかく感覚の話なんです。

 

上で変に詩的な表現かましてますが、「無意味だと思われたことに意味があった」をアツく感じるのは割と共感してもらえるんじゃないかなって思ってます。意地悪で説教くさい見方をすれば、自分のそういう瞬間を重ねているのかもしれませんけど。

 

同じように、外伝の伏線が無理なく本編に活かされたり、勝手にコンテンツ内でクロスオーバーし始めたらもう最高なわけですよ。外伝やスピンオフなんて時点で、ファンの酔狂、って気持ちで手をつけてたのに、そこに意味が生まれたとしたら?「見てない人」と「見てる人」に明確な盛り上がりの差ができるわけです。自分だけの盛り上がりを求めてる人たちにとってはもうそれは最高としか言いようがない。これは今の特撮でやってるような「レジェンドキャスト」も同じです。冬映画がニュースにもなりましたけど、佐藤健は現行の「ジオウ」から入った人には登場人物以上の意味はなくても、「電王」を観てた人からしたら感慨が十重二十重にくるわけで。この「公式として感慨を与える」こと、今の製作者は求められがちですね。

 

もちろんそういうのを是としない派閥とかもいるかと思いますから、十把一絡げには出来ません。感慨にかまけて本編が疎かになったりしたら本末転倒で先細ったりするし。ただ、伏線とかシリーズものとか、そういうのを好んじゃうのはやっぱ性なんじゃないかな〜、と。映画とか小説とかパッケージされた完成品じゃなくて、終わらないコンテンツを追っかけてしまうオタクのサガ。

 

余談ですが、好きな作品は?って話をするとどうしてもそういう伏線の妙みたいな作品が出てきちゃって、人に勧めると同じ盛り上がりを共有できてなさそうということに悩みますね。描写が丁寧、とかで誤魔化した方がいいのかな……と自分語りして終わりです。今後書くとしたら文章にしてしっかり好きなものを紹介したい。

【今更】2018年ベストアルバム3選~邦楽編~

こんにちは、皆さん音楽聴いてますか?

俺は聴いてます。

2018年に発売されたアルバムで俺が聴いてよかったと思ったやつをちょっとだけ紹介します。順位とかはなくて、順不同です。年も明けてひと月も経っておいて何を今更、と思ったそこの貴方、堕落した大学生の行動の遅さをナメてはいけない。うかうかしてる間に時間だけが過ぎた。

洋楽編を書くつもりはありません、洋楽はプログレテクノポップしか聴かないので。

 

1.小袋成彬『分離派の夏』

分離派の夏

分離派の夏

 

難解なアルバムかもしれない。ただそのことは問題でなくて、たとえば「Selfish」に郷愁を感じたり、「Game」に官能的な切なさを感じたりできればそれは音楽体験として成功なのではないだろうか。逆説的に言えば、このアルバムの難解さは、曲単位では容易く再現されすぎてしまう各々の情景に一定のノイズを挿入することである種のグルーヴを生み出しているのではとさえ思える。音像をたどれば、削ぎ落とされた音数と美しい日本語の韻が先端の潮流を掴んでいるように思える一方で、各所に見られるクラシック的な素養と川端康成の引用に代表される純文学然として憚らない詞は彼独自のもので、産み落とされたPopは確実にPopのその先を提示しているように思えた。最早、彼女の名前を出す必要はないのではないか。「言葉は真実を映さない」のだから。

 

2.teto『手』

手

 

例えば、銀杏BOYZと同じ時代に青春を過ごしたかった。例えば、ブルーハーツと。例えば、フジファブリックと。例えば、andymoriと。妄想は尽きないが、俺の青春、このモラトリアムに寄り添ってくれるのはこのtetoというバンドらしい。小池貞利(Vo.&Gt.)という男は、どうしてここまでに、情けない大学生の男の情けない心を抉るような詞を綴ることができるのだろう。いつの時代でもこんな音楽(青春パンクと形容するのは簡単だが、その実像は刻々と移り変わるものである)は要請されていて、それに応えられるギター・ヒーローは必ずやって来るのである。2018年、PopとRockの境目がどんどん曖昧になっていく今でも、泥臭いサビを絶叫する小池貞利はそこに証を刻むのである。10年後の高校生、大学生がtetoを聴いて彼らと青春を過ごしたかったと思ってくれるような、そんなバンドが彼らで、『手』はそんなアルバムだと思った。これを書きながら「忘れた」を再生したらボロボロ泣いてしまった。

 

 

3.tofubeats『RUN』

RUN

RUN

 

先ほども書いたが、2018年、RockがPopに最も接近した一年であった。2017年の紅白歌合戦にはWANIMAが出演して所謂歌モノを披露し、翌2018年はSuchmosが臭くて汚いライブハウスからシティ・ポップを歌い上げたことからも潮流は見てとれるだろう。その流れ、つまりロックバンドはAメロににわか仕込みのラップを援用し、著名なラッパーはロックバンドのリードトラックにフューチャリングされる流れの中で否が応でも表舞台に出現せざる得なかったのが、RockとPopという天秤の上で揺れ動き続けたtofubeatsであった。音楽オタクのいわば「味方」として内向的作品を発表していた彼が颯爽と登場し成功を勝ち取っていったという事実に多少の妬み嫉みを覚えつつも、彼の 「聴かせつつ踊らせ

るエレクトロ・アンセム」を軽々と量産できるセンスには敬服せざるを得ない。アルバム中盤のインストの連続は彼なりの邦楽シーンへの挑戦であるのだろうか。俺はそれに受けて立ち、気付いたら寒々としたワンルームで踊り狂ってしまった。「RUN」から「ふめつのこころ(SLOWDOWN)」に至るまで、Rockの文脈から見ても、Popの文脈からみても、エナジーに溢れた邦楽の現状がまざまざと浮き彫りになっていた。Rockは死んだか。tofubeatsを聴く限り、どうもそうではないような気がする。「自分が生きている場所がニュータウンである」と彼は語る。まさにオルタナティブの文脈における「たまたまニュータウン」ではないか。そんな偶然に失笑していたら(それこそまさにオルタナサブカルといった檻に収監されている俺を置き去りにして)、うかうかしてる間に時間だけが過ぎてしまった。俺が未だにこんなところで足踏みして、30年前のテクノポップを聴いている間に、tofubeatsはどんどんと先へ進んでしまう。

 

大分、酔いが回ってきてしまった。今日はここで終わりにしておこう。ちなみに、今の時点で2019年のベストアルバムを選ぶとしたら、フジファブリック『F』は必ずや選出される完成度である。