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ヒトリエのツアーファイナルに行ってきた

ヒトリエは誰を救うか。

どうしようもなく2つに裂けた心内環境を制御するだけのキャパシティなどが存在しているはずもない、バーチャルとリアル、オンラインとオフライン、POPとサブカルの狭間で苦しみもがく、俺を含めた情けない人間(もちろんそれは、ヒトリエのメンバー自身でもある)のために、彼らは必死に音楽を鳴らすのだと、今日のライブで確信した。 

 

『絶対なんて言葉はもうあたしに関係がない。ひとつってあたしを唄う言葉ってない、それでもあたしは唄うわ。』幕が開いて、真っ先に彼らはそう告げた。なんて力強い宣言。揺れ動くアイデンティティ、片方を選べば遠ざかってゆくもう片方、一方通行の生活。個人が抱えるには重大すぎる葛藤の数々を代弁しようとする、宣言。ロックンローラーが代弁者であるべきなら、ヒトリエは紛れもないロックスターに違いない。

『僕がなりたかったのは、愛だ。』余りにも普遍的で、泡沫の夢のような主題に、果敢にも挑戦したのが『ai/SOlate』であり、『UNKNOWN-TOUR 2018 “Loveless”』であった。愛が唄われるとき、それはいつも切り取られ、切り刻まれ、その断片を、残骸を享受するしかない。しかし彼らは、不完全で、絶対的からは遠いけれど、「愛」その輪郭を掴んだのだろう。今までよりも力強いビート、さまざまな音楽性を貪欲に取り入れる姿勢はその象徴だ。

彼らの唄は、いつだって架空の少女をかたどって、聴く者を誘って止まない。でも、もはやその少女は、だれか1人の象徴ではない。ハッピーかアンハッピーか、web上かライブ会場か、vocaloidかロックバンドか、その垣根など、wowakaは、ヒトリエは、軽々と飛び越えてしまう。架空と現実を隔てる壁に巨大な風穴を開けた『アンノウン・マザーグース』、全身全霊の絶叫がフロアーを埋め尽くした瞬間。少女の幻影は無限に膨張し、ありとあらゆるものを鮮烈に染め上げた。それは、宇宙の始まりに最も似た情景だったに違いない。「俺たちは音楽を超越した、宇宙に、君と行きたい、行けるかな」彼らは問いかける。行ける、飛べる。産声を上げ始めた夢は、もう止まらない。

『IKI』は、彼らのモノクロだった、モノカラーだった世界を、花束のような可憐な色たちで彩った。そして、『ai/SOlate』が色彩で充満した世界から、普遍的な「愛」を見いだした。愛、そこにある可能性は、終わりなく広がり続けるだろう。

どこまでもついていこう、宇宙の果てまでも。強く誓った。

その力は零にも無限にもなれるーー「マジンガーZ INFINITY」

 レイザ?そこの角を左に走って行きましたよ。

 

事実として、僕は未成年だ。そしてこの事実は僕が「マジンガーZ INFINITY」を観ることの何の枷にもならない。age50〜くらいのおじさんたちに混じって「INFINITY」で涙を流すことも、その感想をネットの縄張りに叩きつけることも、年齢から何の束縛も受けていないのだ。

 

この映画を見る層として、僕のような「マジンガーのことについてはそこそこ詳しいが、当時へ想いを馳せる訳ではない若者」は比較的珍しいのではないかと思うので、この仮定を踏まえてこの映画の話をしてみたい。

 

この映画のキモは大胆なアクションというより、その逆、緻密な構成である。本作品の舞台はテレビ版の10年後。もちろん現実ではテレビのマジンガーから30年以上経っている。正統な続編ということで意識せざるを得ないのだが、最初に水木一郎のOPが流れた瞬間、「ああ、これは昔を知っている人向けなのだ」と感じてしまう。それは良い意味でも悪い意味でも、だ。

 

次に偉大なる勇者、グレートマジンガーが登場し、必殺武器の乱舞!最新鋭のCGで描かれたアクションシーンは、重厚感を犠牲に、メリハリのついた見応えのある仕上がりになっている。ストーリー的にもファンサービス的にも機械獣が少数で襲ってくるわけにはいかないのでこれで良かったのだと思う。必殺技を叫ぶ意味のなさといったらたまらなくアツい。随所でで手描きのカットもあり、凝り固まった思想が無ければ楽しんで見られるだろう。

 

このように冒頭にかけて描かれるのはある種の懐古的なエンターテイメントである。元祖スーパーロボット、俺たちのマジンガーが帰ってきた!その感動だけでひとしおなのだ。

 

そして10年後という時間が描写される。ジュンの妊娠、甲児とさやかの立場、ロボット開発事情。ここは言わば話を駆動する装置で、伏線がいくつも散りばめられる。この伏線に沿って後半に一つ「裏切り」が放たれるのだ。

 

後半に行くにつれて「昔の方が良かったのではないか」という文言がうっすらと浮かび上がる。自由に機械を駆り戦いに明け暮れられた、初々しい少年少女でいられたあの頃の方が。そこへ逆らうように投げられる牢獄でのジュンの台詞は個人的に一番のクライマックスではないかと思う。

 

「あの頃の方が良かったーーなんて死んでも言わない」

 

佳境へ入る前に少し脱線しよう。ある時期、僕は「ああマジンガーやゲッターの新作映像をやらないかなあ」というしょーもない嘆きを抱えていたほどだ。思えば少し前はまさにリアルロボット全盛期。というよりスーパーロボットを作るという意味合いが失われていった時代だったのだと思う。

 

注意しておくと、これから言うリアルロボットとスーパーロボットというのは作劇上の話である。未知のエネルギー、未知の巨大な敵。或いは、既知の技術、人の乗る敵機。大雑把な区別である。

 

さて、一般的なイメージではーーといってもこの界隈がどこまで一般的なのかはわからないがーーマジンガーZとは正にスーパーロボットの代名詞。ホバーパイルダーへスーパーパイロット・兜甲児が乗り込み、そのままマジンガーZへパイルダーオン!無敵の超合金Zが人の頭脳と合体して一騎当千の鉄の城。ロケットパンチにドリルミサイル、光子力ビーム、アイアンカッタールストハリケーン、トドメのブレストファイヤーで恐るべき機械獣を原子に打ち溶かす!

 

言ってしまえばそれまで、というかそこに人を感じられなかったのかもしれない。ガンダムが代表するような、「兵器」としてのロボット。「ロボット」でしかないロボットよりも、「兵器」としてのロボットなら、ずっと身近でミリタリーなネタも引っ張ってきやすい。光子力、ゲッター線よりも一般化されたミノフスキー粒子の方が人間関係を主軸にしたドラマにそぐうのだろう。人が扱える技術があってこそ、初めて人は人と向き合える。ブラックボックスはそれだけで存在感を放ってしまうのだ。

 

とにかくスーパーロボットが下火になっているのは確実で、その結果なのかリアルロボットたちもスペック上はどんどんスーパーになっていく(そういうものを全部ひっくるめて時代の要請なのだろうけど)。

 

ガンダムの戦闘シーンというのは異質で、各々が主義主張を叫び、戦闘が行われながら対話も同時に発生する。人の対話を楽しむというのはドラマチックで、きっと全ての創作物に通ずるのだろう。リアルロボットの作劇は「王道」なのだ。

 

つまるところ、創るという観点において、スーパーロボットというのはやり辛い。あくまで私見だが、現代でも力の入っていないリアルはあっても入っていないスーパーというのはあまり見ない。スーパーロボットというのは一大プロジェクトなのだと思う。

 

今回のINFINITYも一大プロジェクトだ。久しぶりの兜甲児マジンガーで、しかもテレビ版の続編。当時の世代へ求心しておきながら、そこで敢えて「昔の方が良かったーーなんて死んでも言わない」意味。言うに及ばず、現在の肯定こそがこの映画の最大のメッセージだからだ。

 

「変身」も「操縦」も「搭乗」も。戦後から続く男の子向けの文化はすべからく、自分ではない何かへ変貌することで暴力を許可されるという構図をとっている。暴力とはまさに「父」であり、仮初の身体にのみ宿る成熟の証であった。

 

マジンガーにとっての「昔」とは輝かしい絶頂期でもあるが、同時に、虚構の暴力に耽溺した時代でもあったはずだ。「昔」ーーあの頃に比べれば、あの頃少年だった人たちはほとんど例外無く息苦しさを感じているに違いない。それはこの映画の兜甲児たちも同じだ。世界を救った英雄ですら、現状のシステムに縛られ、周囲が暴力を許可しない。鉄也のように軍属となり束縛の対象となるか、甲児のように政治から離れて力を失うか、プロセスは真逆でも根底は等しく「父」の喪失による永遠のモラトリアムなのだ。

 

ドクターヘルという究極の終焉に対してしか力を発揮できない甲児は少年のまま時が止まっていると言わざるを得ない。さやかは自立し、ジュンは母となることを選んでいるのから見ると、彼はなんという体たらくだろうか。決して英雄=「父」ではなかったボスこそが一番地に足をつけているというのは皮肉であり事実である。しかし誰が一番、あの頃テレビのマジンガーZにかじりついていた少年たちに近いのかといえば、これまた間違いなく甲児なのだ。哀愁とともに去来するのは、自分にはもっと可能性があったのではないかという嘆きだろう。

 

甲児は最終的に「INFINITY」との対峙を行う。まさに「無限の可能性」であり、甲児は戦いの中ですら無力な自身を自覚したうえで、戦いの果てにあると信じていた「父」たる自分の喪失に気づいたうえで「ああすればよかった」という嘆きに立ち向かわなくてはならないのだ。

 

先程述べた通り、今回提示されるメッセージは現在の肯定である。甲児=観客はこの現実を前にしてどう肯定すれば良いのか?このように、ありきたりな構造に観客を丁寧に組み込むことで、甲児は紛れもなく主人公たり得ているのだ。

 

リサという新規キャラクターは、徹底して無垢な少女として描かれた。それは甲児に次世代というフックを創り出し、「INFINITY」を否定させるための最後の仕掛けだ。もしも、アンドロイドであるリサが甲児たちを見て人を学んでいく様が、観客たちの中で成長する子どもと合致しなければ、最後の「INFINITY」への勝利は御都合主義と化してしまう。ターゲットを絞り、丁寧に構造を醸成させたことでようやくこの物語は説得力を持てる。「マジンガーZ」に内包された、「マジンガーZを見ていた人々」という概念をモチーフに巧妙に作られた、難産の伺えるスーパーロボットアニメ。今スーパーロボットを作る時、使い古された「父」という概念を扱わなくてはならないことがわかるだろう。最近では、ダーリン・イン・ザ・フランキスは初っ端からそういった成分がこれでもかというくらい濃厚に詰められた期待の持てる作品だ。

 

奇しくもマジンガーZEROというのが存在していて、詳細は(疲れたので)省くが、可能性を開いた「INFINITY」に対して、可能性を閉ざす「ZERO」と言える。これも「マジンガーZ」に内包された様々な概念をメタ的に扱った素晴らしい作品なのだが、マジンガー以外の存在を許さないZEROも原理的には同じ存在だ。(対極に位置するものは得てして源流を同じくする)

 

「父」でいるために、マジンガーが唯一無二絶対の最強の存在として君臨する世界のみを存在させる。駆動させているのはINFINITYと同じくかつての栄華への未練である。暴走しまZEROの倒し方もINFINITY同様、現在の肯定と読み換えられるが、鍵となっているのはやはり可能性である。

 

昔のマジンガーも確かに凄かった。しかしあの頃に気ままに振る舞えた「父」に縋っては、その後に続く可能性が消えてしまう。どう仮初の「父」から抜け出すか?未だ正解を見つけられない大人たちが、今はいつか見つかる可能性に託すしかない。それまで彼らにできるのは虚構に塗れた現在も(もちろん過去も)肯定し続けることである。過去を神格化しINFINITYの夢に逃避するか、現在のみに拘泥し可能性をZEROとするかーーそのどちらでもなく自身の生きてきた時代を肯定しながら否定し、せめて未来だけは肯定しなければ、無意味であるとわかっているこの世界から本当に意味が消えてしまうのだ。数字のうち、始まらない「ZERO」、終わらない「INFINITY」でなく、マジンガーは限りあるアルファベットの終わり=終わらせるための「Z」でなくてはならない。

 

偽りの身体というのもまだまだ捨てたものではなくて、そこに段階があるだけで無限の可能性があるのだと思う。役者と役という距離が、現実とキャンパスという距離が、芸術に無限の可能性を生むように、ロボットがあってパイロットがいる限りそこには無限のドラマが生み出せるはずだと僕は信じている。リアルロボットは距離を縮め、ロボットによる擬似的な人間ドラマを再現する。スーパーロボットには独自の方法論があるはずで、ロボットへの距離があるからこそ人は偽りの力を得て神にも悪魔にもなれる。それは繰り返しでもあり、夢から抜け出そうとしているエヴァンゲリオンのような作品もあるが、それはそれとして未来を信じるという自虐的な希望が、この映画に演奏されている。

『高木さん』エンディング曲の「良さ」がマジ

※ 書いてから思ったけど文章がキモい


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アニメ『からかい上手の高木さん』、「良い」…

その良さを事細かに記述した場合999999999999文字を超えはてなブログのサーバが死ぬのであえて「良い」の2文字のみを遺しておきますけども…「良い」ですよ…

原作マンガのファンだった俺は、もちろん単行本は揃えてますが、
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(↑抑えきれない自己顕示。写真一枚に現代社会が抱えるカルマが凝縮されている)

 アニメも期待を裏切らない出来でした。

 

全編エモみが溢れでてエモ死にするところだったんですが(緊急エモみ速報、発令~~っ!!🙄🙄🙄🆘🆘⚠️⚠️⚠️⚠️)、それに止めを刺したエンディングの

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いきものがかりの名曲「きまぐれロマンティック」のカバーを高木さん(cv.高橋李依)がしているんですが、見事にハマってる。ハマり役ならぬハマり曲。←全然ウマくない

 



上手すぎない歌唱がホントに素晴らしい。プロが素人っぽく歌うのってすごい難しいと思うんですよ(実は簡単なことなのかもしれないが俺はわからない。なぜなら俺はプロじゃないから)。

てかこれまさに「カラオケボックスで歌う高木さん」そのものじゃないですか。その衝撃の事実を悟った瞬間に、あれ!?どうして俺が高木さんとカラオケ来てるんだ~!!??って錯覚しちゃったよ~こりゃくまったくまった!w
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いきものがかりっていうマイルドな選曲も高木さんらしいし、

つめたくあしらった
こしゃくなえくぼに
ちょっと 心が揺れている

ここの歌詞とかモロ師岡で西片の心情なんじゃないんですか??これ書き下ろしの曲だっけ???????いや違うか。

高木さんのことだから西片と二人じゃなくて真野ちゃんたちも誘って四人でカラオケに行くことになって、いつものごとく散々西片をからかうんだけど、ようやく高木さんが歌う番になって、歌い始めた瞬間いつもとちょっと違う高木さんの声に西片はドキドキして、そんで「ちょっと」のところで高木さんが西片に目配せして西片が赤面する場面がアリアリアリアリ(ブチャラティ)と再生できるんだよォォォーーーッ

~~~~殺👊👊👊👊🤣🤣🤣🤣

 

俺が伝えたいことはこれで以上です。

 

 

 

 

 

 

 

ドミコ、このバンドを聴かずに2017年は終われなくない?

当初「2017年おすすめバンド特集!」みたいの書いてたけども、そんなネイバーまとめライクなことしても生産性ないなァと思ったから、今年ホントに聴いてほしいバンド一本で書く。

この駄文は趣味で書いてるワケで俺の音楽の趣味を人様に押し付ける積もりは毛頭無いし、自分の趣味を強要してくる輩はウゼェ~とは俺も思うけども、でもョ…。そもそも「この音楽いいから聴いて! 」っていう行為自体、単なる自己顕示欲を超えるものではないし、薄汚いエゴの発現でしかないとは思うんだが…

どうせ皆な正月休みでヒマだろ?

ヒマじゃねえやつがこんな零細ブログ読まないもんな。

このバンドの音楽性は~なんてオタクの御託(韻を踏んだ)はいいから再生してくれ。

ドミコ / こんなのおかしくない? (Official Video)

かっこいい…このMV、彩度がやたらギンギンの映像含めこのバンドの良さが凝縮されてる。

音像をたどれば、簡素な機材を用いたリフ主体のスカスカなギターはガレージ・ロックのそれだし、独特な浮遊感は中期のゆらゆら帝国的なサイケ・ロックを感じる。

ガレージにしろサイケにしろ2017年の邦楽の潮流からは外れた、いやむしろ逆行したオールドスクールなサウンドに違いはない。

 四半世紀は古い音楽を追求しながらも、現代の貪欲なリスナーを頷かせるポップネスはいったい何処から湧き出てくるんだろう。

この手の(音楽性が突き出た)バンドにありがちな、大衆受けする音楽と自分らのやりたい音楽の狭間でギクシャクした音からは程遠い。自分の鳴らしてる音はかっこいいんだという確信が時代をも超越するのか。

ドミコ / まどろまない(Official Video)

そもそもこのバンド、二人組だ。

「三人よれば~」とは言うがその3分の2である。

どうやってこの音を鳴らすのか甚だ謎なんだが、YOUTUBEのコメント欄によれば「一本のギターにギターアンプとベースアンプ二つ繋げてる」らしいけどそんなこと可能なの?教えて。

ドミコ / ロースト・ビーチ・ベイベー  (Official Video)

皆な、紅白観ましたか?最近の邦楽と言えば恋、愛、そんなんばっかで飽き飽き…じゃないですか(恋愛至上主義が一概にクソと言いたいのではない)。

安心してくれ。このバンドの歌詞は「世界観系」というか…、メロディ同様ふわふわしてる。言葉の響きが大事にされてるんだと思う。というかあんま聞き取れんけども。

 

日本のロックは死んだか。いま2017年にもなってこんなバンドが流行りかけてる。今年の秋に出た2ndフルアルバムも、極めて抒情的で、エネルギッシュで、このバンドの可能性をさらに拡張するものだった。俺は、このバンドを聴く限り、邦楽ロックはまだまだやれそうだと思う。

いまの邦楽シーンが退屈で仕方ない皆な、少しドミコに注目してみてくれ。いまこのバンド界隈のシーンは凄い面白いぞ。

 

そうそう、いまAWAっつー定額制聴き放題アプリが90日無料キャンペーンという狂気の行動に出てるんで皆な好きなだけ趣味の音楽をdigってみたらどうですか。ドミコの新譜もアルヨ。

 

 

 

 

正しさばかりのこんな世の中じゃ「仮面ライダー平成ジェネレーションズFINALビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー」

俺は誰だ?レイザなのか?

 

間髪入れず、という言葉がこれ程似合う男もなかなかいない。ついさっき映画の感想をあげたと思うが早いか、悪びれもせず別の映画の感想をあげる。しかも公開中の、更によりにもよって、いかがわしいランキングで一位をとりお茶の間を沸かせ風の噂の種となっている映画を、である。当初はボルメテウス武者ドラゴンの記事を書いていたことを考えれば、これは驚天動地天変地異天地無用というほかない。

 

ヒーロー映画と言うともはやアメコミの庭である。商売っ気を抜いたが故にシンプルでヒロイックなヒーローたち。スーパーな男、ワンダーな女、クモ男にコウモリ男、ブラック未亡人。大して日本のヒーローはどうだろうか?ウルトラマンアカレンジャーは良いとして、仮面ライダー仮面ライダー?一番シンプルであるべき初代たちーーひいては「冠詞」とさえなり得る名前の時点で既に拭いきれない違和感が全方位一斉射〈ハイマット・フルバースト〉なのだ。

 

雑多さはこの記事の冒頭から顔をのぞかせている。現在公開中のアメコミ映画こそDCの「ジャスティス・リーグ」。そこへ「世界よ、これが日本のヒーローだ」と名乗りをあげるのが「仮面ライダー平成ジェネレーションズFINALビルド&エグゼイドwithレジェンドライダー」だと宣うのである。ジャポニカどもが笑わせる。

 

とにかく仮面ライダーは「仮面」というにも「ライダー」というにも中途半端なのだ。実際は「仮面」「ライダー」「ビルド」の「ラビット」「タンク」フォームだったり、「マキシマム」「マイティX」「ガシャット」と「ハイパー」「ムテキ」「ガシャット」をドッキングさせ「仮面」「ライダー」「エグゼイド」「ムテキ」「ゲーマー」になるのだからもうやっていられない。

 

この「前の単語と関係ない単語を言うゲーム」(面白い)の果てに生まれた闇鍋をパイのように頭部へぶつけられる感触。

 

率直に言おう。気持ち悪い、気持ち悪いほどに気持ちが良い。「これ」なのだ。

 

そもそもなぜこのような不可思議現象が起きるのか?答え(であって答えではないもの)は玩具が出せるから、である。スポンサーのバンダイへ利益を与え、見返りに予算をいただく。もはや癒着などという言葉では言い表せない二者の関係もエスカレート&エスカレーションを続けている。

 

しかし子ども向け番組のスポンサー、玩具というものは避けては通れず、現在放送している「ウルトラマンジード」「仮面ライダービルド」「宇宙戦隊キュウレンジャー」ではそれぞれ「ウルトラカプセル」「フルボトル」「キュータマ」というコレクションアイテムを「ジードライザー」「ビルドドライバー」「セイザブラスター」で読み込むという遊び方を提供している。一つ大きなアイテムを売り、それのプレイバリューをコレクションアイテムの波状攻撃によって拡大していく。

 

出番という点ではコレクションアイテムの価値は決して並列ではないし、どうしても満足度は逓減していくだろう。工夫がなされているとはいえ、後半は面白いおもちゃを買うというよりコレクションに重きが置かれていく。しかしそこに触れると「そもそもおもちゃを買う意味とは?」という第一命題コギトエルゴスムが炸裂するのでこれ以上はお前は誰だ?俺の中の俺

 

Come a world queue die.

 

近年の仮面ライダーの方法論として、モチーフを定めるということをやっていた。戦隊ものが兼ねてから行なっていたメソッドである。しかしさらに時間軸を現在へ近づけていくと、徐々にモチーフの複数化に気付くだろう。玩具の主軸となるモチーフと話の主軸となるモチーフ。

 

「エグゼイド」において、「ゲーム」と「医療」の二つを、「命」を使って見事に描ききった。そしてなんと「ビルド」はある種メタ的に、異なる二つを混ぜて創造するという現象そのものをモチーフにし始めるのである。

 

科学実験はともかく、今回のフルボトルの中身は笑いが涸れるほど無節操だ。ゴリラ、忍者、友情、が有機物。掃除機、ダイヤ、コミック、消防車が無機物。しかし平成二期ライダーも、探偵、魔法使い、戦国武将、幽霊かと思えば、メダル、スイッチ、ミニカーなどやはり無節操なのであった。

 

ここで、言っておきたいのは、平成二期(ダブル〜ビルド)仮面ライダーのベルトは基本的に「ドライバー」であり、アイテムを使わないベルトは「バックル」なのである。この認識をしっかり持っておくことが仮面ライダーたらしめる要素の理解への足がかりとなる。ドライバーとは「駆動装置」であり、アイテムから力を引き出すためのもの。初めてのドライバー、ファイズドライバーが変身ベルトの道具化を提示した。誰でも変身できることが強調された同作の人気とは無関係ではないだろう。

 

ディケイドがカードという形で仮面ライダーを抽象化し、ドライバーを再提示した。そして平成二期の始まり、「ダブル」はガイアメモリ というアイテムの導入によりその「可視化」の実現に繋がる。これが「ダブル」の偉大なところで、仮面ライダーたちが「仮面ライダー」の精神を、平成ライダーたちが「クウガ」の信念を受け継いでいるとして、確かに平成二期ライダーは「ダブル」の方法論を継いでいる。

 

敵も味方もガイアメモリというアイテムで変身する。もっともわかりやすい例がこれで、基本的に「力」は技術や精神ではなく、アイテムに属する。罪の十字架〈クロス・ファイア〉というのはおふざけではなくて仮面ライダーの初期名前案の一つで、常に敵と同じ力を以て戦うことが仮面ライダーの根源である。

 

今映画のラストで「仮面ライダーとカイザーの違い」が提示されたのも至極当然で、万丈の「仮面ライダーとは?」という問いへのアンサーの一部なのだ。玩具の量産化を逆手にとるようにして、仮面ライダーはよりその本質へ近づいていく。

 

それに力がアイテムに属するということは、逆に精神は依存しない。実のところ、変身できるとかできないとかは彼らにとっては関係ない。目の前の人を放っておけず、それを救うために伸ばす手が変身というプロセスになるだけ。悲しい過去を背負い、自分そのものとして変身を行う昭和の仮面ライダーとは全く異なる変身といえよう。異形の姿を宿す彼らはその変身から逃れることはできない。どこまでいっても彼らは仮面ライダーを背負う、その悲しみを仮面に隠して戦い続ける。一方でアイテムで変身する場合それが無ければ変身はできない。逆説的に、身一つになっても食らいつく精神性をこそ仮面ライダーと呼べるようになる。仮面ライダーは力の呼び名ではなく、力の使い方の呼び名なのである。

 

常日頃から提唱しているのだが、戦うのは「悪」と「正義の味方」である。「悪」はわかりやすい。弱者を自己のために振り回すことは悪と呼ばれる。しかし「正義」は難しい。なぜならば、見返りを求めてはいけないのが正義で、そんなことを実行できる人などいないからである。しかし現実には正義ではなく、正義の味方がいる。

 

映画のもう一つのキモとして、「何で見知らぬ人のために戦えるんだ?」という問いへのアンサーがここに顕在する。ライダーたちは各々闘う理由がある。伸ばされた手を掴むため、ダチを作るため、弱者を見捨てないため、未来へ繋ぐため、笑顔を守るため、ラブアンドピースのため。そこには理想がある。自分の信じる理想を正義と呼ぶ。その正義へ味方する生き様が、即ち正義の味方と呼ぶべきもの。

 

自分の正義のために戦うことが性悪説的に描かれるのがライダーバトルであり、性善説的に描かれるのがライダーの共闘という現象である。今回の映画であれば徹底的な性善説を感じることができるはずだ。誰に感謝されるわけでなくても、自分の正義には抗えないので、戦う。映画ならではの世界の破滅を目の前にしているせいでぼかされてはいるが、彼らは正義という仮面を被ったただの正義の味方であり、それは偽善者とも呼べるのだ。

 

力と意志、そして正義。玩具の過剰さと螺旋を描いて突き進む仮面ライダーなりの正義の在り方を強い軸にして創られたこの映画にしてようやく、ライダー映画はヒーロー映画として一つのステップを越えた。

 

アメコミの実写化にあって日本の漫画の実写化にあって然るべきものはただ一つ、愛である。予算や役者のNGなど、「原作」から二次的に創られるものは何らかの制約を受ける。その制約は映画の出来に関わってはくる。確かに、今回のレジェンドキャストたちも、スケジュールによってはこの映画のエンタメ性をより深く出来ただろう。予算が山のようにあれば圧倒的なVFXがファンの心を掴み、興行収入はうなぎのぼりかもしれない。

 

しかしこの作品には、そういったファン向けの部位以外にも、今まで10年弱描いてきた「平成二期ライダー」への猛烈なリスペクトがある。もちろんファン向けの描写を語ることも可能なのだが、ここまで語ってきたことはこの映画がここに存在する、その事実への感謝である。

 

そしてここから先、複雑怪奇な「仮面」「ライダー」はこれからも正義の仮面を被り続けながら、様々なモチーフ世界へライドしていくだろう。「どの世界にも仮面ライダーがいる」という勝利の法則。仮面ライダービルドは、全く関係ないものを組み合わせる、つまり仮面ライダーのメソッドを実践し続けている。メソッドがモチーフとまでなったのはスクラップ&ビルドの準備段階に過ぎない。「破壊者」ディケイド→ダブルの2010年から創り上げてきたものが、創造者ビルドによって破壊されまた創造されていく。日本のヒーローの一つの世代の終わり〈ジェネレーションズFINAL〉。何見の価値もあるはずだ。